二人の亀三郎
伊達宇和島藩の殿様、伊達宗城の幼名は亀三郎である
福井藩主・松平春嶽らとともに幕末の四賢候と言われた偉人である
山下亀三郎は東京で学生時代、伊達宗城公に拝顔して
殿様の友人である春嶽公の話を縷々聞かされ耳の底に残っていた
それから20年後、海運事業を拡大するために神戸に支店を出した
諏訪山の東常磐に居た頃、ある骨董屋の店先につるしてあった一軸が目に留まった
亀三郎はこれが欲しくてたまらない、ネゴが始まったが
正札の45円はいかにも高い、30円に値切ったが
店の主人はどうしても負けてくれない、一旦は諦めて帰ったが
いかにも心残りで思い切ることができず遂々出直して正札どおりで
買求めたのがこの春嶽の詩作である
我無才略我無奇
常聴衆言従所宜
人事渾如天道妙
風雷晴雨予難期
この春嶽の一軸を目にしたとき、亀三郎は「あたかも20余年前の宗城公のお膝下にもでも
伺ったかのような感じも起きたからであった」と語っている
宗城公は時々訪ねてくる同じ名前の亀三郎を見込みのある書生として教育した
元亀三郎は亀三郎に部下の穂積陳重、児島惟謙に教えを乞うよう諭していた
若き亀三郎がやがてベンチャー起業し、石炭・海運の先端産業で成功するのは
同名・亀三郎の藩主宗城公の人脈のお陰であった
一句
一軸の前で亀亀夏もみじ