「トランパー」出版まであと10日(山下三郎と海運再編)

昭和三十五年十月二十八日、山下汽船は、辻詡吉が代表取締役社長を辞任、山下三郎が代表取締役社長に就任した。
三郎は、亀三郎の次男、明治四十一年(一九〇八)生まれで、慶応義塾大学に在学中は小説家を目指していた。川端康成室生犀星らに注目され、新人として期待されていたが、父・亀三郎の厳命により、昭和六年卒業とともに山下汽船に入社した。
 昭和三十五年末に発表された「所得倍増計画」では、外航海運の拡充が必要であるとして、「海上輸送の安定確保をはかるため目標年次の昭和四十五年までに少なくとも千三百三十五万GTの外航船腹を整備、このため今後十年間に九百七十万GTの外航船腹の新造」を掲げた。政府は、昭和三十八年(一九六三)二月の閣議で「海運業の再建整備に関する臨時措置法案」「外航船舶建造融資利子補給および損失補償法および日本開発銀行に関する外航船舶建造融資利子補給臨時措置法の一部を改正する法律案」のいわゆる「海運再建整備二法」を決定。七月一日に公布、施行された。
 海運の集約に参加したのは結局、六グループ、八十八社、六百五十七隻・九百三十六万DW、当時の外航船腹の約九十%を占め、船会社の集約再編成は海運史に残る出来事で、他の産業界にも類を見ない大規模なものであった。
 山下三郎社長は、昭和三十八年十一月八日、新日本汽船・山縣勝見社長との合併調印を終えたが、五十五歳の若い社長が誕生することになった。三郎は、昭和四十八年(一九七三)、日本船主協会会長に就任したが、その秋に第一次オイルショックに見舞われ、燃料油確保に通産、運輸の各省や国会、自民党への陳情活動におわれた。平成十一年(一九九一)七月十三日逝去、享年九十一歳だった。昭和五十三年、勲二等旭日重光章を受章している。
 中核六社誕生前夜の昭和三十八年十一月二十二日に、アメリカでケネディ大統領が暗殺された。折しも日米間の衛星中継実験放送の最初のニュースが、この衝撃的な悲報だった。

***トランパームービー総集編***