アイクと呼ばれた男  (19) 終戦

 大同海運の船舶被害は、同社船員の菊池金雄氏が主宰するウェブサイト『硝煙の海』から引用させてもらった。菊池氏は2020年、満100歳の時、「山縣勝見賞特別賞」を受賞された。長年にわたる徴用船の記録/取材活動を通じて、海事交通文化の発展に寄与したことが受賞理由。

『硝煙の海』第1部から記事を引用させていただく。

大型輸送船「向日丸」 玉音放送

 ソ連軍機の猛追撃から必死で北鮮を脱出した残存船団は、昭和20年8月15日の朝、整然と舞鶴に向け日本海を避航していた。母国のラジオからは繰り返し重大放送の予告が流れ、無線部ではなるべく多数の乗組員に聞かせようと、通信室のスピーカーの線をあちこちにのばして待機していた。 われわれは、ソ連参戦という最悪事態に臨戦したので、おそらく最後の決戦を国民に呼びかける放送であろうと予想していた。
 正午、玉音放送が開始された。しかし、その内容は理解できなかった。引き続き放送されたアナウンサーの解説で、戦争の終結天皇が自ら放送したものであることを知った。この放送を聞いた乗組員の反応は、外面的には平静だった。 私自身は「戦火の海で数々の死線をくぐりぬけ、やっと生きのびることができた」のかと内心半信半疑だった。一部の軍首脳部以外は戦局のことなど知るはずもなく、ましてや日本が降伏するなどと、誰も夢にも考えていなかったことである。ただ私は、過日釜山港で無線受信機のダイヤルを回していたとき、偶然「日本ポツダム宣言受諾」のデマ放送を瞬間的に耳にしたが誰にも口外しなかった。あの放送がデマでなかったとはとても信じられなかった。

内航海運新聞 2023/7/31

 

アイクと呼ばれた男 18 偉才亀三郎逝く

 山下亀三郎は新橋の料亭「金田中」や「新喜楽」で政財界、軍部の要人を呼んでモテナシタ。河豚会では2回に分けて接待した。河豚に奇麗処に、惜しみなく金を散じた。田中正之輔も呼ばれて元ボスと珍芸を披露した。浜田は小唄、長唄謡曲など何でもこなしたが、流石に大会社のトップばかりの席には呼ばれなかった。しかし戦時の重要案件では行政査察使の亀三郎に呼ばれ、各港湾の整備に汗を流した。 

 田中が須磨邸で臥せっていた時、亀三郎翁の使者から、菊花紋章入りの紙巻煙草50本缶入り6個と色紙が届けられた。脱仙の筆で「墓まゐりついあすになりあすになり」の一句が書かれていた。田中は月城画伯に「無花果と山吹」を色紙に書かせ、自らの「香煙一如 華乎實乎」を書き添えて使者に持たせた。
 12月13日家人を大磯に使わせると、翁は最前、亡くなったという。
 己んぬるかな!
 最後に曽ての日神戸で、翁としてはその最も思い出深き諏訪山荘から、正之輔に墓参りの催促句を以て、その絶筆を贈らる。何としても宿世の因縁と言わねばならぬ。  

亀三郎翁の絶筆  出典:『大道』

   

 

アイクと呼ばれた男( 17) 「船舶運営会」 

 昭和16月8日の「トラトラトラ」で太平洋戦争に突入した。田中の唱える海運の国家統制で、昭和17年4月、船舶運営会が設立された。
 本部は日本橋白木屋の6階に設置され、運航局など実務部隊は「山下学校」の優等生ばかりだった。理事長に八幡屋春太郎、運航局長・大久保、輸送部長・渡辺、港務部長・浜田らの精鋭である。その後、浜田は燃料部長を兼務し滅私奉公を貫いた。 

 

(内航海運新聞 2023/7/17)

出征兵士を見送る 吉田港桟橋の人たち 昭和17年ころ (出典:河野哲夫氏)

アイクと呼ばれた男 (16)辻鈔吉、大同を去る

 昭和13年、浜田は論功行賞で会社の株式、50株を貰った。また賞与として1万円を支給された。当時洋服が50円、靴が10円の時代である。浜田は1万円を貰い「どないしたらいいもんか」と、ハタと当惑したそうだ。

 浜田は15年1月北京陸軍部に召喚された。大同は秦皇島炭200万トンを引き受けていたが、国内では石炭が不足している。陸軍から配船が悪いと糾問された。氷結期の配船は定期用船契約上難しい、軍が氷による損害の責任を取って貰うならと、進言すると(この馬鹿野郎!国賊奴)と軍刀のこじりで床を叩いてお叱りを頂戴した。

内航海運新聞 2023/7/10

 

アイクと呼ばれた男 (15)盟友・石田貞二急逝

 田中正之輔は山下汽船を辞める時に125,000円の借金があった。 昭和12年5月、亀三郎翁は田中ら山下脱退組を午餐に招待した。翁は7年前に辞めた者に退職金を払うという。「金はわしが貸したんだ。初めから払って貰おうと思っとらぬ。退職金は取り悪くかろうが、まあ取っとき給え」と、借金と退職手当の精算書を渡した。あのような辞め方をしたのに、誰も退職金を貰えるものとは思っていなかった。「オヤジさんがやるというなら貰おうじゃないか」と皆はアイコンタクト。オヤジは続けて「何れにしても自力で払えるようになった。偉いものだ。これでわしも店の者に君らの偉さを吹聴できる」といった。その後、田中は亀三郎と文通もし、行き来もするようになった。この頃、準戦時体制の走りで、海運界は他の産業に先駆けて好況を呈した。

 

内航海運新聞 2023/7/3

 

アイクと呼ばれた男 (14)定期航路とタンカー

 飯野逸平は、伊予吉田町生まれ、明治37年宇和島中学を卒業後、村井保固の紹介で森村組に入社した。大正元年からニューヨーク支店へ赴任、村井の下で働いた。村井の後任として太平洋を33回往復し、自らを「太平洋の蟻」と称した。
 最後の航海を記念して、    一句 トランクの蟻太平洋を横断す
 昭和34年15年ぶりに帰省して、 一句 蜜柑山又蜜柑山立間村    

 日本陶器の社長を退任後は、名古屋港審議会の委員として名古屋港のまとめ役となり、名古屋港の発展に尽くした。
 大正期、吉田病院建築には、山下亀三郎、村井保固らと共に百円を寄付した。また村井保固愛郷会の会長として村井幼稚園などに多額の寄付をする篤志家だった。

出典:(太平洋の蟻 : 故飯野逸平翁を偲ぶ) 貿易之日本社

(日章丸)三菱重工横浜船渠で建造、昭和13年11月29日竣工
優秀船建造助成施設法の適用を受け建造された
公試運転で19.6ノットを記録、船価340万円
昭和17年2月海軍に徴用された。

 

内航海運新聞 2023/6/26

 






アイクと呼ばれた男 (13)新型船・高栄丸

 浜田喜佐雄の入った大同海運は、船を持たない、オペレーター専門の会社だった。商売道具の船を持たなくて、貨物輸送の仕事が良く出来るものだと、世間は思うかも知れないが、ものは考えようである。他人の船を借りればよいのだ。1年間の用船期間と月間の用船料を取り決めれば、船主はオペレーターの集めた荷物を運ぶだけで良い。オペレーターは荷主廻りをして、採算の合う、より良い荷物を獲得すれば良いのである。
 オペレーターという言葉を最初に使ったのは、浜田と同郷の白城定一で、海運本場のイギリスでもそのような言葉はなかった。だが大同はスクラップ&ビルトという新制度に飛びついて、子会社に船を造らせた。新たなボスの田中正之輔はやり手で、政府米という荷物を見つけ、1万トンの大型船を建造し、イケイケドンドンだった。浜田は田中の下でテンテコマイの忙しさとなった。

 

内航海運新聞 2023/6/19