宇和島藩七代目伊達宗紀(むねただ)の『天赦園』

宗紀は江戸、幕末、明治と100年を生きた。
70歳のとき宇和島城の麓に庭園『天赦園』を造成した。
トランパーの山下亀三郎が生まれる前の年1866年に完成した。今年で丁度150年になる。
「トランパー出版祝賀会」出席のため帰省した4月29日、揮毫者などに名園を案内した。
たまたま茶会が終わって手仕舞いのところ茶室の掛け軸が目に留まった。
主宰者は座敷へ上がってくださいと、我々を迎え入れてくれた。100歳の時に書いた「春山公」の書が飾ってあった。下の写真がその書で、100歳にして勢いのある書入れである。
1844年53歳で息子(養子)宗城に藩主を譲ったが、日本のため宇和島のため尽力した宗紀の引退を惜しむ声が江戸の徳川将軍から届いたという。
幕末の四賢候と言われた宗城はこの聡明な父に育てられ、宗紀は隠居した後も息子のよき相談相手になった。
今は昔、宇和島藩祖・伊達秀宗の奥方は徳川家康の側近「井伊直正」の娘、亀姫である。
200年後、直正の子孫「井伊直弼」は、「安政の大獄」で反対派の親戚・宗城を処罰しようとしたが宗紀の5回にわたる説得で隠居ということになった。明治になって旧大名は東京に移り住むが宗紀は宇和島「天赦園」に住み続けた。

一句
白藤や天が赦すと春山公