『欧米独断』 第二南米篇(伊藤清造博士の人口と食料論)

 私がべノス・アイレスへ着くと夜中に古谷公使が館員と共に埠頭に迎えられたことは感謝に堪えない。言語不通の私には狭いながらホテルよりは便利であろうとて公使館へ宿泊を許されたのは何よりの事であった。到着の翌々日5月10日には私の為に晩餐を開かれ武府第一流の方々に紹介せられたのは更に忝く思った。同客の中へ折から出府中の伊藤博士の出席を得て卓抜なる談話を聴かされたのが又も難有味を加えた次第である。伊藤博士はA國に於ける大牧畜家として廣く内地に伝わっている人だから、彼れ此れと言う必要はない。私がサイベリア鐡道で帰朝の予定なるをいふたを、きっかけに博士は言ふ。

…自分は大正9年に1囘露国を通過し戦後再び圑隊旅行に加わって通ったが何でもない。
クレムリン宮殿は露人渇迎の標的であったからソビエット政府はこれを使用して、新政府の威厳を示している。レニンの死体に強烈な防腐剤を注射して生き顔が数十年は見られるようにして有る、自分も見たよ。ソビエットも党員が多くては統一が取れなくなるから20万人も除名して60万人が武力で専制政治を遣っているのだから相変わらずの寡頭政治で、富んだ貴族の壓制政治が貧乏壓制に代わった丈へさ。宗教を禁じたといふけれども、宮殿のマリア堂は観音様参りと同じで沢山参るよ。ソビエットは邪魔にならぬ限りは皆放任だ。民族自決で独立した当両国に対しても同様だ。財産の私有も然りだ、餘り恐るべきものでもないようだ。世間では東西文明の中継ぎは日本だと考えているが実は露国だよ。支那の老、荘、墨子などの思想は日本人には解らぬ、印度哲学だとて千年以上研究されているけれども真意は解らぬ。独逸の某(逸名)が日本を見て書いた書物に、日本人は欧人と同じもので現実主義だ、戦闘国民だ釋宗演に逢うてみたが、彼の態度言説忝く然りだったとある。然るに露人は支那印度の思想の真髄を詳しく実行する。茲まで聴いて私は喙(くちばし)を容れた、喙それは獨人も能く見たもので博士の説も面白いが、日本人に支、印の思想が解らぬおではない、解って後の往き方が異うのである健全なる国民思想が然らしむるのである。支那でも印度でも老荘なり仏教なり解ってくると独り済まし込んで独善先生の隠遁家と為るが、日本人は禪を遣って悟っても悟り後の修行を重んじ、如何に人生の最善の努力をすべきかに苦心し勉励し、神仙佛如来に為らずして人間に復ることになって居ると弁ずると、博士其の他からそれが基督教同様だとの説が出でで食堂に入った。食後待合室へ退がると公使は一同の為に牧畜談を博士に請うた。(以下略)