『欧米独断』 第一北米篇(半月湾の掘出物)2

 予が四日桑港に到着するや、新聞日米早くも之を江湖に傳ふ、故を以て知米知を問わずして我縣人の來訪頗多し。五日早朝姓山本といへる人あり。兒を携え来たりて面晤を求めらる。予其何人たるを記せず、訊問して暫くに山本稠造氏の長子にして写真師豊美君の兄なると予が西小路に在りしとき、総髪の老婦人に扶けられける孺兒、土居雪恵君と齢を同ふする、達夫君其人が今日本街に齒科醫を業とする多年なるを知れり。邂逅の喜絓請ふ察を垂れよ。爾夜に日米新聞社主となりて小歓迎會あり、山本君亦來り加はる。而かも他奇を傳ふるなかり。
翌六日は日曜にして安息日なれば遠遊に可なれども近きは喧騒に堪えざるべくサンタローサ―の僻陬にバーパンク先生の故園を弔らひ長澤翁を問ひ午後にして帰宿し、明朝自動車を驅りて高橋栄之助君を半月湾(ハーフモンべー)に訪はん。君は吉田藩儒士森先生の姪なりと、電話したりと山本君の伝言を告ぐ。(中略)
金門公園より山谷を唯一カ所築堤して数里にる大池の湖の如くなるに沿いて、2,3のゴルフ場を過ぎ對山の坂路を越ゆれば伊太利人の農場あり、蔬菜を栽培す。金門港の南方半月形の湾に出れば邦人も14、5戸近頃移り來つて農場を開けり。潟の西端に近き丘腹に一人家ありて、我掘出物たる高橋君の住所なり。
(後略)

吉次郎の和歌
 (桑港上陸三月四日)
はらからと同じおもひの人々とわかれんことのうべもかなしき
我家と二十日ばかりを住みたればすてがてにする船にもあるか
 (桑港遊覽三月五日)
青芝の庭は菜の花さかりにてこがねの門の名にもふさはし
大海の波打際に走せいでてつりいとなげて居つくばふ人
樅の森の彼方はいづこ白壁のたかどのならぶ丘の上の街
  (三月六日日曜日サンタクロサへ自動車をかりて)
おとなしき山の姿の浅茅原牛放ちけり馬はなちけり
牛馬も鶏も一つの廣庭に馬の走れば鷄の迯げちる
  (同じ所にてバンパーク氏の故園を訪ふ 六日)
君逝きてまだ一年も經ぬものをなどかく荒れし庭の眺めぞ
呼起し語らまほしく思ふかなひともと杉の下の翁を