「トランパー」出版まであと15日(太平洋戦争)

昭和十九年四月二十六日、第一吉田丸(五千四百二十五総トン)がフィリッピンのリンガエン湾で雷撃をうけ沈没、船員六十三名、兵士二千五百八十八名が戦死。同船には第三十二師団のうち歩兵第二百十三連隊約三千五百人が乗船していた。更に第三吉田丸は、十九年八月二十四日、台湾沖で米潜の雷撃で沈没、船員七十名、兵士百六名が戦死。高津丸は十九年十一月十日米軍機の空爆により、レイテ島西岸で沈没、犠牲者は船員百四名、兵士二百四十三名。
亀三郎の没後、昭和二十年(一九四五)三月二十七日栗林忠道中将の自決で硫黄島が玉砕した。続いて四月一日四十五万人からなる米英連合軍は沖縄に殺到した。
六月二十三日沖縄戦を指揮した第三十二軍司令官の牛島満中将の自決で、約二十万人の犠牲者を出した沖縄戦は終わった。
その後、広島、長崎への原子爆弾投下で三年八ヶ月余の長い太平洋戦争は終結した。昭和二十年八月十五日正午、ラジオは天皇陛下玉音放送を流した。「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す」ポツダム宣言を受諾、無条件降伏するのである。

海運関係の損害は他産業に類を見ない莫大なものであった。船舶の喪失にともない、船員の犠牲も悲惨を極めた。戦争に参加した商船の船員は七万千人で戦死者は三万五百九十二名、損耗率は四十三%にも達した。漁船・機帆船を入れると戦没船員は六万六百九人となる。陸海軍人は戦争参加九百八十万人で戦死者は百八十六万五千名、損耗率は十九%だった。
船員は、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組んだ。輸送船団がいかに敵の攻撃にさらされていったか、この大きな犠牲者の数が物語っている。