「トランパー」出版まであと16日(巨星墜つ)

亀三郎は、長期に亘る激務の行政査察を終えて帰京したとき、疲労困ぱいで気管支カタルを起こしていた。大磯の別荘で療養をはじめたが、周囲の説得でやっと床についたのは十月末だった。十一月に入ると左肺に肺炎を併発した。つぎつぎ訪れる見舞客に亀三郎は会いたがったが、医師は面談を許さなかった。衰弱は日に日に増して、十二月九日の夜、危篤に陥った。そして四日後の十三日午前、波乱万丈七十八年の生涯を終えた。
直ちに勅使が発せられ、秩父宮をはじめ皇族が高輪の山下邸に足を運んだ。
葬儀は、十四日、池田成彬葬儀委員長のもと小磯首相以下全閣僚、各界の名士が参列して、厳かにおこなわれた。
大用院殿義海超僊大居士。

(ソウル空港にてステッキに帽子姿/吉田三傑資料室から)