「トランパー」出版まであと31日(亀三郎上海行き)

昭和11年2.26事件が起きた。大雪の朝、麻布にある歩兵連隊の軍靴の跡が延々と続いていた。昭和維新を目指す青年将校のクーデターだった。日本は満州事変から上海事変国際連盟を脱退し、ワシントン、ロンドン両条約を破棄し戦争に傾いて行った。昭和十四年九月一日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した。日中開戦(昭和十二年)以来アメリカ、イギリスとの対立を深めていたが、国際的孤立から脱するために、昭和十五年、「日独伊三国同盟」が結ばれた。軍国主義が進む日本、ヒットラーナチス・ドイツムッソリーニファシスト党支配のイタリア、それぞれの思惑が絡んだ、危険な軍事同盟だった。
昭和十六年四月上旬。亀三郎は浅間丸に乗船、上海へ向かった。彼は日中戦争がはじまると、一年に一度は上海へ出かけた。
「私は政治のことは判らない、またそれに触れようとも思わん。しかし昭和十二年以来日支の平和が破れたまま、一方では新政府をつくって握手し、他方では戦争をしている状態のなかで、山下の事業だけを考えていていいのか。こんなことでは両国ともに困るではないか。私は十年二十年と個人また事業を通して交誼を結んできた中国の友人に会い、親しく語りあって、君らに何かいい考えがあれば日本官民の首脳連へ取り次ぎくらいはできるよ、と呼びかけようと思う。戦争は、いつかは止む。われら多年の友人は、いまから平和後を考えておこうじゃないか」これが亀三郎上海行の弁である。太平洋戦争が始まる8か月まえのことである。
彼はフランス租界に、千五百坪の土地を得、上海公館をつくった。六月、中国新政府主席汪兆銘が来日し、近衛文麿ほか政府要人と日中和平の促進について語りあった。亀三郎の力添えによるものだった。
汪兆銘は宮中に参内後、高輪の山下邸に入った。
(亀三郎は北光丸を使い、前年の昭和十五年四月二十九日汪兆銘ハノイから上海に救出している)

一句
しのび来る戦火のにおい寒椿