「トランパー」出版まであと36日(軍事色強める昭和初期)

亀三郎は田中正之輔などの離反のあと、会社の経営陣を若手に一新した。
なんとか減量経営で会社の危機を脱した。そのころ金輸出の再禁止とスクラップ&ビルドの政策で過剰船腹の解消につながり遠洋市況が好転してきた。
昭和6年関東軍満州事変を起こした。翌年は515事件、昭和8年になると国際連盟を脱退し日本は国際的孤立に向かった。
このように軍部が台頭するなかで軍需輸送が増え山下汽船は運賃高騰の中で収益がうなぎ上りとなってきた。
山下汽船の昭和十年末(一九三五)の船腹構成は社船六隻、準社船十四隻の計二十隻、約十七万五千重量トン、一般管理船八隻約七万重量トンのほか、一般用船六十万〜七十万重量トン、合計常時八十万〜九十万重量トンの運航船腹を擁し、社船、準社船の全運航船腹に占める割合は大体二十%台であった。
昭和十年頃からいよいよ軍靴の音が高くなり軍国主義の道を進み始める。
戦局の進展で海運についても国家管理の統制が厳しくなってくるのである。