「トランパーの雄」出版まであと116日(山下学校の俊才)

亀三郎は事業拡大で多くの俊才を採用したが、山下汽船から故あって離れた人材は、その後各界で功なり名を挙げた。世間は山下汽船が多くの俊才を輩出するので、これを「山下学校」と呼んだ。その山下汽船草創期に鋳谷正輔(その後川崎汽船等)、玉井周吉(玉井商船)、白城定一(日満鉱業)、福本貞喜、田中正之輔(大同汽船)らがいた。店童として南予愛媛県)から石原潔、浜田喜佐雄が山下学校に入門した。石原潔は慎太郎、裕次郎兄弟の父親であることは知られている。小樽支店長として樺太の木材輸送などで功労を積んだ。当時の小樽は神戸と並ぶ2大港湾で北のウオール街と呼ばれていた。裕次郎は毎晩料亭・開陽亭での接待で泊まりこむ父のために着替えを持っていった。当時裕次郎は船乗りになろうと思っていたそうだ。
門下生の一人浜田喜佐雄は大恩ある亀三郎を離れ、先輩田中正之輔が率いる大同海運に転身した。
山下学校を去るあたり若き喜佐雄の苦悩があるが、まだまだ先の話である。
一句
伊藤公開陽亭に冬の客

(裕次郎の愛艇・コンテッサ3/裕次郎記念館・ブログ主撮影)