「トランパーの雄」出版まであと118日(山下汽船発足)

借金を抱えた亀さんは、兎に角、稼ぐには道具、船がいると持ち船を増やしていった。貨物船数隻を購入し積極経営で石炭販売から海運業へウエイトを移した。これを支えたのが郷党の白城定一や玉井周吉、鋳谷正輔などの所謂山下学校の門下生である。
その頃、日本初のタービン船が完工、液体燃料を使い、無線電信も装備して近代的な船舶の出現をみた。さらに大型タンカーも建造された。しかし日本の保有船はまだ、900隻足らずで海運大国イギリスの9,000隻と比べ貧弱で発展途上の海運国であった。
我が国は明治43、4年頃になると、日露戦後の不況風が止み、国力の回復とともに外航海運も荷動きが良くなり景気が戻った。
亀三郎は44年6月山下汽船合名会社を設立した。本店を東京に置き神戸に支店を構え海運と石炭の二本柱で事業を推進することになった。亀三郎は会社の業容拡大を進め優秀な人材を幅広く求めた。都心の大学卒や九州、四国の中学、高商の詰襟組、郷里などから尋常小学卒の店童をどんどん集めた。
亀三郎の採用方は1顔1見主義で、ひとり3-5分で採用の可否が決まる、人間を見る目は確かだった。亀さんは「人を使おうと思えば、自分があまりものを知っていてはいけない」
「アクの強い、生意気な男こそ役に立つ。大いに使いこなせ」と独特な社員教育で彼らを切磋琢磨した。
「トランパーの雄」もう一人の偉人(浜田喜佐雄)は明治35年生まれで、山下汽船発足当時は、まだ尋常小学校に入ったばかりだった。喜佐雄が山下汽船に入社するのは7年後のことである。
一句
船出する日本も亀も春息吹き