「トランパーの雄」出版まであと150日(亀三郎のインテリジェンス)

亀三郎は京都に落ち着き、小学校代行教員の職を得る。
亀三郎の部下、木村一郎が自伝『足跡』で〝亀三郎のインテリジェンス″と題して「山下は16歳で伊予の実家を飛び出し、先ず京都に落付いて1年半程小学校で教鞭を取っている。その小川小学校は今もそこにあるのではないかと思うが、上京で京都御所も近く、その辺りは有識階級の多い地域である。
したがって生徒も教養の高い家庭の子女が多く、そこで教えるには教師自身に相応の教養が要求されていたはずである。当時の教養といえば無論まだ漢学中心のものであったろう。山下の話によれば、その長兄は宇和島藩の学寮に通い、16、7歳ころには左伝や史記などを通読していたというから、嫌でも兄の素読は耳に入ったであろうし、時には講釈も聞かされたであろう。あるいはさらに自ら進んでこれらの漢籍に親しんでいたかも知れぬ。」と書いている。
亀三郎の自伝「沈みつ浮きつ」の中に写真集があるが(助教員時代)長髪で3人の生徒と映っている。もう1枚は(小川校記念の集い)として昭和3年、つまり京都時代から45年後に当時の校長や教え子らと写真に納まっている。
亀三郎は〝自分は文章も書けない″と言っているが16歳位の若輩者が代用教員になれたのは?
能ある鷹は…で、じつは亀三郎はインテリだった。

一句
風かほる京の都の葵祭