「トランパー」出版まであと29日(太平洋戦争と船舶運営会)

昭和十六年十一月二十二日、日本海軍空母機動部隊は択捉島・単冠湾に集結した。旗艦「赤城」で南雲中将は米太平洋艦隊を攻撃することを告げ、十一月二十六日八時ハワイに向け出港した。
ハワイまでの行程は三千五百海里、艦船への給油が最大の問題であった。民間のタンカーが荒天の海上に七隻同行した。この特設給油船の果敢な責務遂行がなかったら、真珠湾の奇襲は成功しなかった。
山下汽船の「日本丸」は、特設給油船として徴用された。昭和十一年六月に神戸川崎造船所で竣工したタンカーで、海軍に徴用されるまでの五年間は北樺太、ボルネオ、ロサンゼルスから日本へ石油を輸送していた。昭和十六年九月に徴用されてからは、宿毛湾や有明海で洋上補給の猛訓練をおこなった。十月の軍隊区分は真珠湾攻撃機動部隊・補給隊第二補給隊であった。
第二次大戦突入に伴って海運管理令に基づく船舶の一元的運営機関として十七年四月「船舶運営会」が設置された。
大同海運・浜田喜佐雄は「海運中央統制輪送組合」の幹事となり、「船舶運営会」発足に当っては、運航実務者の第一線に選ばれて参事に就任、港務部長、燃料部長の激職を歴任、また海運総局嘱託に任ぜられ、大本営海運総監部にも出仕して、軍と緊密なる連携の下、非常時下の海上物資輪送の確保と全国港湾運営の指導督励に東奔西走、重責を全うした。喜佐雄は「全員実によく働いた。戦ったと言った方が適当かも知れぬ。滅私奉公の一念に燃えて戦った。疎開など唯一人考えた者は無く、爆弾雨下将に死にもの狂いであった」と後日語っている。
一句
寒風の太平洋に日本丸


山下亀三郎自伝「沈みつ浮きつ」より引用)

「トランパー」出版まであと28日(自伝「沈みつ浮きつ」の序文)

昭和18年4月に発行された『沈みつ浮きつ』の序文は、徳富蘇峰が達筆で認めている。
――「予が山下君と相識る四十余年、明治三十五年(一九〇二)の喜佐方丸以来のことである。君は明治・大正、昭和を通し海運界の名物男にして一の大なる存在である。君一生の結論から言えば
一、公益を本位とした
一、事業を本位とした
一、自力を本位とした
以上三点は君をして今日あらしめたる所以と認む。
君は世間を学校とし、艱苦を師友とし徒手空拳、今日の山下その人の人格と山下汽船の事業とを築き上げた。君が郵船、商船等の大物を向こうに廻し、山下汽船の存在を世界に謡わるるに到る迄には、幾多の浮沈があり、縷々生死関頭にも立ったであろうと思う。然も君の男振りはドン底に沈みたる時に最も立派であった。同じ負けでもけち臭き負け方はしなかった。それがために却って債主からも世界からも大なる信用が降り来たった。君は幹軀も長大ではなく、容貌も魁梧ではない。色は浅黒く、目は細く、鼻は稍低く、唇は薄くある。併しその眼の奥にはきらりと閃く光があり、鼻の尖には不撓不屈の戦闘力があり、薄き唇の一文字に締りたるところに大なる決心がある。渾身みな精力、然も機を見るに最も敏、事を断ずるに最も速、之を行うに最も勇、而して一面また顧慮商量の余裕を剰している。君は偽善者といわんより寧ろ偽悪者だ。自ら野人とか、脱線とか称して喜んでいるが、野人でも脱線でもない。乃ち本書の如きを見れば、君は立派な紳士である。ただ君は相手次第にて、その運用の妙は一心に存するものか。
君の美徳は他人の好意を忘れぬことである。古人は知恩難、酬恩更難と言ったが、君は善く知り、善く酬いている。此の意味において君は孝子でもあり良友でもある。君が海運業者として国家に貢献したる以外に、一片の侠気もて――例せば汪精衛君を仏印より脱出せしめたる如き――国家及び公共に対して幾許の奉仕をなしたるか、即ち寄附金の一事に徴しても其の財産から比例をとりてみれば、如何なる大富豪にも後れをとっていないと思う。君が故郷に慈母を記念するために女学校を設け、又親友、秋山眞之提督や、古谷久綱のために尽くした事などは、正に君の人間味の一面を語るものである」 
――
徳富蘇峰熊本県の出身で、同志社新島襄から薫陶を受け「国民之友」を創刊、「国民新聞」を発刊している。小説「不如帰(ほととぎす)」を書いた徳富蘆花は蘇峰の実弟である。

(「沈みつ浮きつ」より引用)