今日は「糸瓜忌」正岡子規の命日

松山が生んだ明治の文豪で俳句の神様「正岡子規」は明治35年9月19日午前1時に文京区根岸の里で没した
毎日、日本新聞に随筆を所載していた「病牀六尺」のコラムは、亡くなる2日前で連載が止まった
子規は書くことで病苦を一瞬忘れた、自分の随筆を新聞で見ることが唯一生きる支えだったのだ
その「病牀六尺」の冒頭(第1回目)に出てくるエピソードは、亀三郎の親友で
吉田三傑の一人「清家吉次郎」が地元愛媛新聞に投稿したものらしいことが最近分かった

正岡子規と吉田三傑)
亀三郎と子規は慶応3年、子規の友、秋山真之は慶応4年(明治元年)御一新の頃、生を受けた
亀三郎は真之と始めて会ったのは明治36年、その後肝胆相照らす仲になったが
真之は亀三郎に子規のことを話したのだろうか?
子規は明治28年日清戦争の取材に新聞記者として大連に行き帰りの船で喀血した
神戸港に着くやすぐ須磨の病院に入った、鳴いて血を吐く(ホトトギス)が子規のロゴとなった
三傑の村井保固はニューヨークの陶器貿易商として太平洋を90回横断した国際派、
松山中学(現松山東高)卒で子規、真之の先輩である
子規は「野球」という言葉をつくり野球殿堂入りしているが、名前がノボルなので野ボールと捩ったとか
愛媛は野球が昔から盛んで野球拳も松山から流行ったらしい、村井は本場アメリカ・ニューヨークでベースボールをやったかもしれない
吉次郎は慶応2年9月14日生まれ、亀三郎と同じ愛媛県北宇和郡喜佐方村大字河内で今年は生誕150年である
明治22年7月愛媛県尋常師範学校を卒業、明治25年10月喜佐方尋常小学校の訓導として故郷に錦を飾った
しかし、2年後愛媛県の最南端南宇和郡の小学校に飛ばされたが、翌年校長になり月棒はたった14円だったという
明治33年4月南宇和郡視学(教育行政官)を皮切りに明治44年まで教育界で活躍した
若き35歳の頃、子規との奇縁が生まれるのであるが、仔細は次号へ・・・
いや〜明治時代はロマンですね

一句
糸瓜忌や獺祭深酒供養かな


(吉田三傑が揃った珍しい写真)
  左2亀三郎、3保固、6吉次郎