「トランパー」出版まであと90日(浜田喜佐雄の店童時代1)

亀三郎は四国、中国や九州の中学、高商、小学校高等科と個性的な英才を集めた。小学校卒は店童、中学と高商は詰襟組とよばれ、これに慶應義塾早稲田実業横浜高等学校の大学卒や大阪商船、飯田物産などからひきぬかれた俊英も加わって切磋琢縻する社風を造った。
その中に店童から出発した「浜田喜佐雄」がいた。
亀三郎の故郷・伊予吉田生まれの若者である。喜佐雄の生家は、旧玉津村白浦で明治三十五年三月七日、四人姉兄弟の次男坊として、呱々の声をあげた。
白浦の田園風景は「彼岸ともなると、小川の水は温み、岸のレンギョウが黄色い花をもち、猫柳が猫のうぶ毛を想わせる実をつける。やがてレンゲ草、菜の花、桃、桜、その他の草木が一斉に咲き乱れて、郷里は百花燎乱の中に包まれる。オタマジャクシがチョロチョロと泳ぎ、メダカが川上に向ってスイスイとのぼる。春が終ると、田圃には畦が作られ、老若男女の田植姿が一面に展開され、一幅の絵ができ上るのであった」と、後日筆まめな喜佐雄はエッセーに書いている。
彼は店童から風雪に耐え大同海運、ジャパンラインの重鎮となり出世街道を突っ走った。亀さんと違って勉強好きで夜間学校で英語など苦学の末マスターし、博覧強記の男と言われた。
一句
少年の青雲見えし芽吹く丘

(喜佐雄の里、白浦 段々畑が山の上まで続く)