「トランパーの雄」出版まであと141日(村井保固伝2)

村井は安政元年吉田藩士の次男坊として成長、宇和島の英語私塾から広島、松山と遊学した。だが若い身空の遊びたい盛りである、道後温泉で放蕩、養家先村井家の金録公債を使い果たした。亀さんの先輩もトコトン遊びほうけた、ご同慶の至りである。自由闊達な男は慶応義塾の門を叩いた時も、福澤塾主の前に全学費を投げ出し「私はこの塾で教える位の学問は身につけている、しかし学歴が有った方が世の中へ出て何かと都合がよいそうだから当塾へ入れてもらいたいと思う。就いては学費はこれだけしかないので、これで卒業出来るようにしてほしい」と、人を食った膝詰談判の果て、二年級へ滑り込んだ。
塾同窓に尾崎行雄犬養毅らが政治家を志す者がいるが、村井は商人たらんと決意し、明治11年卒業すると、福澤諭吉の推挙で陶磁器等の大手商社である「森村組」へ入社した。ニューヨーク支店の支配人となり活躍、森村ブラザーズ、ノリタケチャイナの名を世界的にするなど、日本陶磁器の歴史は村井保固に負うところが多かった。
亀三郎が奉公先を辞めた時、村井はさらに大倉孫兵衛洋紙店を紹介した。郷党のために汗をかくという、実に面倒見がいいのである。この二人はその後大成し、郷里に吉田中学等創立するなど多額の寄付をして社会還元をするのである。
一首
いにしえの偉人遺せし大業はわが行く道に光灯せし/span>

(左から2番目が亀三郎、3番目が村井保固、右端が清家吉次郎で珍しい吉田三傑が揃っている)
*ブログ主が吉田高等学校「吉田三傑資料室」で撮影したもの*