吉田三傑「村井保固傳」を読む 27

白生地と強生地完成の苦心 (2)

白生地の製作は森村組百年の発展に絶対の必要条件だった。
その以前に、松方侯爵の紹介で東北出身の斎藤某が多年研究の結果、白生地の製作に成功したと見本を携えて森村のもとに来た。此方は長い間の懸案事項で紹介者が松方侯で大いに喜び頭から信用して、同人が機械買入れの為欧羅巴へ行く際、正金銀行のクレジットを提供した。丁度その頃村井も帰朝中で、森村の紹介で同人と同じ船で米国に出立した。此の時村井の学友の岩崎謹次郎も二等船室に齋藤と一緒に乗り込んでいた。村井は内々岩崎に耳打ちして齋藤の来歴を詳しく聞いてくれと、頼んだ。果たして船中でも岩崎から折々報告してくる。最後に紐育に着く前に岩崎は「どうも彼奴は大変な食わせ物ですぞ、今までに大名など何人やられたか知れませんよ」との注意である。紐育に着いてみると豊さんにも森村から齋藤に何かと便宜を図ってくれと手紙が来ていた。
村井は豊さんと一緒に齋藤と面会した。豊さんは村井の質問を黙って傍で聞いているだけと云われていたが、話の途中で大不機嫌になり「宜しい、話は又後に伺いましょう」で面会は中止となり、ロンドンのクレジットは取り消してしまった。齋藤はロンドン行きを決行し機械を買入れたが支払いが出来ぬため正金や森村を訴えると騒いだが、幸い事件が深入りする前に早く消防されたため、大火に至らなかった。
これより先森村組が多年にわたり非常に苦心したのは絵付工場の統一問題である。尾張の瀬戸で作った生地を東京の各工場、京都の工場に分付し、各工場で絵工を抱え適宜絵付していた。その間往復の不便と無駄が多かったので名古屋に近い所へ纏めることになり引っ越しが完了したのが明治29年である。
絵付工場の集中が飛躍の動機で、米国からインポートオーダー、即ち約売りも次第に増加し、陶器輸出が本格化した。大倉が生来意匠に富み考案に妙を得た特長を発揮して次々と新奇の絵付をさせたものが、米人の人気を呼び一層売れ行きを旺盛ならしめた。
中間幾多の派生的事件はあったものの、日本陶器会社設立は着々運ばれて、明治37年1月1日起工式を挙行し、左の宣誓を陶板に誌して工場礎石の下に埋めた。
  森村組創立以来日本陶器の完全ならざるを慨し、改良の爲めに盡瘁すること己に二十有余年、今や我陶器をして歐洲の製品に比肩せしめ益々完美の域に進め以て我國貿易を降盛ならしめんが爲め、茲に日本陶器株式会社を設立す。
誓うて至誠事に當り以て素志を貫徹し永遠國利民福を圖ることを期す。
  明治37年1月1日
          森村市左衛門
          大倉孫兵衛  
          広瀬実栄
          村井保固 
          大倉和親
斯くして明治37年11月3日第1号窯の火入式を施行したのを始め、39年2号、3号、40年4号、5号、41年6号、7号窯を順次新設した。日本陶器会社は大倉和親、絵付工場は田中孝三郎、森村組出張所は広瀬実栄に分担し事業の盛大に連れて創業第二世が次第に新鋭の気を吐く素地を成して行った。
強生地はまだまだ完成とまで行かないが相変わらず試験の時代が続いた。明治43年罷免された飛鳥井の後任百木技師が欧米に出張して調査研究をした。45年江副副技師も加わり精神を絞って研究に没頭するが製作が思うようにいかぬ。村井は彼らがこの事に話しが及ぶと感極まって落涙するを聞いて「涙は人間真剣味の表現である。それほどの熱を以ってやるなら必ず成功する日が来ることに相違ない」と一層激励した。たまたま訪欧中の大倉和親から招電あり、明治45年江副技師と山田技術員が伯林に急行して何かしら感得する所あり、茲に初めて神秘の鍵を掴み得た心地になり、帰朝して試みにやってみると果たして成功の緒を見出すことが出来た。
斯くして大正3年冬立派な八寸皿を制作して、日本陶磁器界に劃時代的飛躍がもたらされた。その結果、同年暮れから大正4年にかけて、初めて2千組の注文を受け込むことになった。実に新工場設立より11年、溯ってヒギンサイダーの親切な忠告に接してから約20年の星霜が流れた。血と汗と涙の結晶ほど尊いものはない。