吉田三傑「村井保固傳」を読む  23

 
両親へ孝養

米国人のキャロライン夫人が自ら毛糸の編み物をして、村井の両親に揃いの下着を送ってくる。實父も村井への手紙にキャロラインによろしくと、芳情を寄せることを忘れない。村井からは實父と友人に白毛布を送った。更に年賀廻りで両親には祝儀、實兄には田地とそれぞれに心を籠めた記念のお祝いをした。至れり尽くせりの孝養に実家を揚げて常春の喜びを続けるのである。
村井と實父の間に手紙の往復が数回あった。
明治21年1月3日付の實父から村井への手紙は、
(前略)本地は十二月三十日より降雪地を隠し、三四日間は綿ぼうし而己にて戸外出入難出来と云はんが如し。故に一日はコタッを不離打過し二日は午前より最寄りへ出てヲカン酒などして愉快を覚へ申候。
奇妙の者よ世間を見れば時日移らばまた其気になり、只々めでたいめでたいといふて何となく陽気を受、しかし十二月十二日出の御書十二月十五日着、同時に思召しの樽も着し御指圖の通り諸人へ振舞、目出度祝ひ人々にも其許の名譽を感ぜしめ、隨て自分も被敬重御歸省の際、一樽御持帰り候故に右は有間敷と存候處、意外にて充分を過し難申盡く存候。先は年甫御祝詞書餘永陽可申述候めでたくかしこ。
廿一年一月三日
たるは來る 雪はつもらし年始客 振まふ心何にたとへむ
終わりに母堂さよより書き添へたる
それはそれは大さわぎ、うたうやら、かたるやら、そうたいぶり、きがはれました。まこともつべきものはこなるぞや。なんとわたしの心の中おさつし下さい。

至孝と純愛の交流で字々情味あり、句々笑顔である。特に母堂の添え書きに至ってはたくまずして小品の大文章をなして居る。定めし村井もホロリとしたことであらう。
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明治32年7月、豊さんは多年の活動に無理をした祟りか、46歳の働き盛りで空しく鬼籍に入った。爾来日米両店の連絡と云う大役を村井が一人で引き受けることになった。その為帰朝の度敷も一層頻繁となり、遂に一生83年間に太平洋横断90回と云う、普通人としては聞きも及ばぬ最大レコードを作った。或る時試しに計算してみると、90回の横断で太平洋上に約7年、米大陸横断の汽車に2年半と云う旅程を重ねた勘定になる。

【写真は村井保固傳の中より引用】


錦衣帰朝に両親への孝行、實父母と村井保固 明治18年4月

叔甥の親しみ 森村明六(右)森村豊(中)その頃の7代目(左)