がいな男 (47)行政査察官 (48)老骨にムチ

 がいな男の長男・太郎が山下新日本汽船/昭和57年の『殉職者追悼録』に〝追憶〟と題し寄稿している。
 第一次大戦の時代は、私はまだ学生であったので、あまり多くの事を記憶していないが、第二次大戦中は社長であったので思い出も数え切れぬ程多いのである。
 同大戦中に約八十四隻、四十万総屯の船と千八百余名の乗組員諸君を失ったのであるが、横浜から或いは神戸から御用船として出帆する船を出来るだけ見送り、武運長久を祈ったのである。見送る者も見送られる諸君も口には言わぬが「これが別れになるかも知れぬ」との思いは致し方無かった。
 中でも最も強く記憶に残って居るのは御用船高津丸、出発の情景である。此船は実に奇妙な成りゆきの船であった。山下汽船の船でありながら山下の重役も工務もどんな船が出来上がるのか何も分らなかった。誰も見る事を許されないのである。やがて完成して高津丸と命名され、山下の船員が配乗された。彼等も又船の構造等に関し軍の機密として何も語る事は許されなかったのである。いよいよ高津丸は、装備を完了して出発の日が近付いた。其時、軍から「社長一人だけ乗船を許すから来ても良い」と通達があった。吾社の乗組員に会ってなごりを惜しめる事を喜んで一人ランチで出かけた。見て驚いた。これは正しく軍艦である。夥しい大砲が装備されて居る。然も指揮するのは陸軍の将校なのである。多数の陸の将兵が乗組んで居り、吾社乗組員は唯運航を担当して居るのである。船では私を相当の儀礼を持って迎えて下すった。吾社出身の士官達は殊に喜んで私の周囲に集まってくれた。「社長は素人だから船内を見せて上げてよろしい」指揮官の言葉で一人の若い大尉位の将校が船内を案内して見せて貰った。カンガルーが腹の中に子供を多数入れて居る様に此船の胴腹の中には上陸用舟艇がビッシリ入って居り、後部の扉を開けば兵を満載してスクリューを廻しつつ飛出せる様になって居た。敵前上陸用舟艇の母艦であった。船名の高津とは神武天皇御東征の折、近畿地方御上陸の時の地名の由である。
 案内を終って若い大尉は、「私は此舟艇群を卒いて敵前上陸を指揮します」、其れからニッコリして 「私は社長と御関係の深い住友海上の社員であります」。私は当時住友海上の重役を兼務して居た。矢張他人の様な気はしない。
 時は過ぎ、なごりは尽きないが、私の帰るべき時が来た。私の下船を見送る為、整列してくれた吾社乗組員の前に私は立った。彼等はジット私の目を見て居る。私も彼等一人一人の目を見る。若い人達である。選りすぐったと見えて容姿も態度も本物の軍人に少しも劣らない優秀な人ばかりである。
「武運長久を祈るよ、無事で帰ってくれよ」私は目でそう云ったつもりである。船長は「では行って参ります。山下汽船の名誉にかけて、日本海員としての義務を立派に果して参ります。社運の隆盛と皆様の御健康を祈ります。私達が万一帰れぬ場合、後をよろしくお願いします。皆さんによろしく伝えて下さい」と凛々しく挨拶をした。涙もろい私の目は少し怪しくなって来た。陸軍将兵の前でもあり、戦の門出である。不景気な顔付きは禁物である。急いでランチに乗り手を振り合って別れた。
 一人帰る私の気持は暗かった。昭和十九年初秋の頃で敗戦の色は濃かった。この優秀な若い人達を、あの熾烈化した南方海上の戦へ! 私は悲しく腹立たしかった。
 船は十九年の暮、レイテの戦にオルモック湾に突入して勇戦の後撃沈された。吾社の乗組員は一人も帰らなかった。あの若い将校達も恐らく同じ運命であったろう!
 あの乗組員諸君が今生き永らえて居れば、遠洋航路の優秀船の船長、機関長として第一線に活躍して居る人達であろう。又住友出の若い舟艇隊長も同様に同社の幹部級で働いて居られよう。惜しい、何としても惜しい。何百度云ってもまだ足りない程惜しい、残念な事である。
 この様に思い出は限り無く多いけれど、紙面も尽きて来たので此二つの話だけで筆を止める。其の他の犠牲者の全部も海員としての義務を立派に果して祖国に殉じた人々なのである。又二度も三度も撃沈されながら泳いで生残り、今尚第一線で活躍して居る人も多い。筆を擱くに当り謹みて千八百四拾三柱の霊に頭を垂れて其御冥福を祈るものである。――

内航海運新聞 2023/1/30

内航海運新聞 2023/2/6