がいな男 (46) 天皇陛下ご進講

 がいな男の秘書、木村一郎は京都帝国大学卒のインテリで、晩年『足跡』を著した。
 木村は、昭和5年山下汽船に入社、日々日記をつけていた。
 昭和10年月神戸港には、ロンドン支社へ赴任する木村を見送るため、会社の連中や、川崎汽船三菱商事などの関係者が集まっていた。大連から満鉄でハルビン経由シベリア鉄道の旅だった。『足跡』には、その後、海外赴任者にしか体験できない戦争の稀有な経験談を綴っている。

……ロンドンでドイツ軍の空襲に遭ったが、その後、ビルマのラングーンでは逆に敵国となったイギリス軍の爆撃を受けた。この時は、入港中の社船・山里丸も標的にされ被弾した。さらにビルマから帰って大磯の山下邸の庭で、東京方面に向かう米軍B二十九の大編隊を見上げた。
 また、昭和18年9月3日、がいな男のご進講のあった日の日記には、
……想い起こす四年前の今月今日、朝十一時半、突如空襲警報のけたたましいサイレンに、日曜日の朝の静寂は破られた。ガスマスクを肩に即刻外へ飛び出してみたが、道行く人もまばらに町はひっそりと静まり返り、見上げるロンドンの初秋の空は青く晴れわたり、中空に浮かぶ阻塞気球は、昨日よりも更に数がふえた感じだ。サイレンもやみ何の事やらわからぬまま部屋にもどり、正午のニュースを待ちかね、ラジオのスイッチを入れてはじめて英、独の開戦を知った。一瞬戦慄が全身を走った。昨日ポーランドよりの撤兵を要求した最後通牒に対し、ドイツよりは遂に回答なく、今朝十一時をもって両国は交戦状態に入ったと繰り返し伝えている。「ああ、やっぱり……」
 それから丁度四年の今、あの時ドイツと結び東から侵攻してポーランドを二分したソ連は、今や敵となってドイツと相対し死闘を繰りひろげながら、このころはハリコフ、スモレンスクの線を更に西へと独軍を圧迫しており、イタリアでは政変起り、ムッソリーニは殺されたとも伝えられて、戦線脱落は時の問題と見られていた。実際は丁度この日、九月三日イタリアは盟邦独日に何の通告もなく、無条件降伏に調印していた事が四、五日して判明し、朝野に大きな衝動を与えた。日本は既に北方キスカ島より撤退、南方ではソロモン海域一帯にわたり、連日凄惨なる死闘が繰り返されていた。……
 しかし木村は、運が良かったのか、幾たびかの戦火の中で、いずれも怪我一つ受けず九十五歳の天寿を全うした。
 木村は、がいな男の天皇陛下ご進講が決まって以降、周到な準備をして進講3回の経験者、徳富蘇峰にも忠告を受けた。当日は控室でがいな男の首尾を、どういう気持ちで待っていたのだろう。

内航海運新聞 2023/1/23