がいな男 (9)鉄道自殺未遂 

 明治39年夏、がいな男は「新喜楽」の女将おきんと一緒に、朝鮮総監の伊藤博文公を表敬訪問した。
おきんは、横浜の富貴楼お倉のもとで修業し、東京築地に新喜楽という料亭を出した。この店は、伊藤博文など大物政治家が贔屓にして繁盛していた。
 朝鮮に渡る前に、馬関(下関)の料理屋「大吉」で、朝鮮に同行する株仲間の平沼延次郎と河豚を食べたが、これがなかなか美味い。がいな男は土産に河豚を持って行こうといったが、おきんが(それはいけない、伊藤の御前は河豚を食べない)というので、新鮮な小鮒を持って行った。延次郎という男は、平沼専蔵の婿養子で、横浜株式米穀取引所の理事長や銀行経営をしていた。
 がいな男は、土産の小鮒を持って、延次郎と共におきんの後をヒョコヒョコついて行った。伊藤公がいる南山の官邸で昼食をよばれたが、昨日の土産・小鮒を焼いたのがお膳に上がっていた。おきんが伊藤公に、「これは、山下が手桶に入れて馬関から持ってきたものですよ」というと、伊藤公は、意味ありげにニヤニヤ笑っている。そのわけが分かったのが、翌朝、秘書官の古谷久綱が、「亀三郎さん、実はお土産の小鮒はみな腐っていて、あれは、こちらで取れた鮒を出したのですよ」ということだった。
三人は、伊藤公もなかなか茶目っ気があると笑ったが、がいな男は、伊藤公に馬関の鮒の講釈をしたので、さらに冷や汗をかいた。

 がいな男と延次郎は、株で大儲けを目論んだが、(驕る平家は久しからず)だった。やがて来る戦後の株式大暴落に堪えきれず奈落の底に落ちた。
 延次郎は大分の耶馬渓で縊死、がいな男は鉄道レールに頭を乗せた。

 

2022/3/28 内航海運新聞

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