暑気払い

HO会の司会進行とカラオケで朝から忙しい
ビデオプロジェクターを搬入、スクリーンをセットし
音響と接続しているうちに時間
60名程の後期高齢者が集まる、年よりも気ままで司会者が
時間ですと、いっても中々席に着かない
フラダンスはメンバーとその仲間で3曲踊る、Kアロハは先生がソロ
カラオケは地元でボランティア活動をしている座長の下で6名が12曲を唄う
飛び入りのカンツォーネもあり、和気あいあいでビンゴゲーム
帰りがけに、唄って居ない連中が2次会にカラオケに行くという
この年でも酒で行き足が付くのかと、頼もしくもあり
過日、花見酒で数名が失敗したことも有るので心配でもある

一句
暑気払い蜻蛉もとまるフラガール

吉田三傑「村井保固傳」を読む 25

肺病に罹る

一応の協定が成立した頃、村井はウイーンの街で吐き気を催し、物陰で試みると正に喀血である。無理をして渡欧した祟りか、一人一行と離れ紐育に帰着、キャロライン夫人の出迎えで直ぐに、リバチー病院に入院静養する事にした。当時の肺病は先ず死の宣告を受けたと同じ思いである。平生粗放で蛮勇を揮うことにかけては人後に落ちない村井、大酒は勿論シガー黨の豪のもので不養生の限りを盡す方であった。だが、一旦病の床に就くと、神妙に反対の極端に沈み、気も心も一圓に弱りはてた。況やその頃は、事業の前途洋洋たる希望の輝きを認めてきた矢先、一朝不治の病にかかり此のまま鬼籍に入るようなことがあっては、青雲の大志も空しく水泡に帰す。眞に万里の異郷に死んでも死に切れぬ長恨の情に堪えないものがある。
其処へ行くと一方の村井夫人は秀麗な容姿で羅衣にも堪えない弱々しさが、一旦危機の厳頭に立つと見違えるほどの強靭性を発揮した。
そうして最初の試練がリバチー病院生活に現れた。当時村井は旅の疲労と発病の衝動もあり、容体楽観を許さざる上に発汗を満身さながら水を浴びるが如く、15分毎に寝衣を取り換えるのに夫人は一切自分でやり、看護師の手を煩わさない。更に服薬、食事の世話まで昼夜を通じてほとんど不眠不休、これには森村店員を始め、在留日本人の見舞いに来るものが、夫人の熱愛と熾烈な気魄に打たれぬ者は無かった。
こういう失意の底に呻吟する村井が、時に一服の清涼剤として思い出したのは、前年物故された恩師福澤先生が曾て自分に寄せられた左の一詩である。
適々豈唯風月耳 渺茫塵世自天眞
世情休説不如意 無意人乃如意人

その中病気も小康を得るようになったので、医師の勧めにより故国日本に帰り静養することになり、夫人と親戚のララ譲と二人の介抱を受け、明治37年帰朝し、神戸須磨に落ち着いた。
当時須磨病院の鶴崎院長が話した事には、肺病は実際これと云った適薬がない。唯精神を安静にして出来るだけ多量に栄養分を吸収するが一番の療治だといわれその方針を守っていた。その内次第に元気が回復してきたので海浜に出て白砂青松裡を散歩する。ある日波打ち際で足を海水に入れた。これは院長から厳禁されているが、妙に快感を覚えた。こうして毎日深みに入り2か月後には泳いでみたが頗る良好で何等危惧の余地がない。ある日、鶴崎院長と一緒に海浜を散歩し、突然着物を脱いで海中に飛び込んだ。驚いたのは院長である。一見胆をつぶして驚倒せんばかりに村井の無謀をたしなめる。
村井は静かに陸に上がって、脈拍から聴診と仔細に調べてもらうが別に何等異常もない。そこで今までの経緯を白状して海水の効果を禮賛すると、流石に院長も兜を脱いで「宜しい、それじゃ是からもおやりなさい」と今度は大ビラの免許で冬近くなるまで継続してたものである。
静養一年半で、さしもの大患を完全に征服して更生の元気に満ちた村井は、再び商戦の場に馳せるため程なく冬の太平洋を横断して夫人やララ嬢と共に揚々帰米した。
一方森村組では大倉父子-が既に歐米から歸朝して、予ての計画に依り工場を名古屋市則武に設け、西洋に注文した新式機械で是より大量生産と云うふ新しい試練の途に上つた。今まで家内工業として主に日本人に特有な手先きの技術で製造した陶器事業を工場組織に轉換するのである。即ち大量卸売に對する大量生産で当然の歸結ではあるが、同時に大なる冒険でもある。然もそれ以上の大飛躍が試みられることになつたのは製品その物である。