吉田三傑「村井保固傳」を読む 24

森村組の特色と弊風改良
元来、森村(6代目市左衛門)は勤勉力行を5代より相続し、豪宕不覊を4代目に享けた。
自分は丁稚小僧から出立、あらゆる商売に携わり、辛苦経営の功を積むその間に、一種の風格と気骨を鍛え上げた。尋常市井の商人とは肌合いを異にし、曲がった事は毛虫の如く嫌いであった。賄賂や遣い物でお得意の歓心を結ぶのが厭で、折角築き上げた御用商人の足を洗った潔癖家である。
当時、居留地外人を相手の商売でコミッションは当然の商習慣だったが、森村組に限って遣い物、手数料は一切受けない。手を変え品を変えて試みるがどうしても納めてくれぬ。結局森村組に遣い物は禁物と諦めた。その代わり商品の検査は厳重を極め粗製乱造は絶対に通らぬ。米国市場で森村組の商品が、居留外商の手を経たものより優勢なのは当然であった。
斯くして幾多の苦心と経験を繰り返した結果、最後の結論で最初の発案となったものが、自家製造という一途である。これなら日本の製造の最初から米国市場の卸売りに至る最後まで、完全なる一貫作業により責任も利益も総て自己統制の一手に掌握される。茲に一大飛躍の新天地が開かれる。

日本陶器会社の設立
森村ブラザーズ創業より取扱った多くの商品で、量に於いて金高に於いて陶器類が過半を占め、他の雑貨は3、4割という状態で、今後陶器製造に主力を移すことになった。
古来有名な瀬戸地方に近い名古屋に工場を設置する儀が起こった。
その頃、紐育の村井から紹介された英国の陶器製造者でローゼンフェルトが来朝した。彼は米国で日本陶器の「盛り上げ」を見てその繊細と精緻を極めた技術に驚嘆し、一度日本の製陶業を視察したいと村井に接見したのである。
先ず東京で森村を訪ね、それから大倉の案内で各地の製陶状況を視察した。その際森村組で工場設立の話を聞き、日本が200年余の製造法を継続しているのは珍重するが、更に西洋の新技術を参考にして新設備の下で製陶事業を起こしたら前途は一層有望である。
されば工場を造る前にまず渡欧して西洋の同事業を視察されるが善い。それには自分の工場を開放して御覧に入れるとの親切な勧告である。
森村、大倉は大いに心を動かし、大倉は蔵前の工業学校を出た技師飛鳥井幸太郎と共に紐育に来て、多年店で働いている大倉の子息和親を通訳として、渡欧する手はずとなった。村井は自分も進んで三人と同行しようと、その頃幾分健康を害して居ったが、半ば決死の覚悟で重大使命の一役に参加することになった。
斯くして一行四人が紐育から渡欧の途に就いたのは明治36年6月である。先ず英国に上陸してローゼンフェルトを訪ね、その工場を視察しそれから大陸に渡り独逸に赴いた。更に墺国(オーストラリア)カールスバットに同工場を観た。規模と云い設備と云いすべて驚くばかりで、日本の工場とは比較の談ではない。これは仔細に西洋の技術と設備を調査する必要があると、滞在期間を延ばして前後三週間綿密に調査を遂げた結果、大体の成算が出来た。そこで諸般の機械を注文し洋式製糖工場を設立する案を立てた。それにはローゼンフェルトと提携して助力を得る必要があり、相互共栄の交換条件が協定された。村井は多年西洋人との折衝に慣れており、交渉で明敏な判断が発揮された。
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村井短歌
はね起きていさや励まむけふもまた
 かせぐに勝るたのしみはなし


(日本陶器株式会社の営業部)


(発展の基をなした渡欧の一行)
飛鳥井幸太郎(前右)大倉和親(後右)村井保固(後左)大倉孫兵衛(前左)