がいな男 (6)秋山真之大尉
がいな男所藏の書簡には秋山真之からの親切なものが多いという。
舌 代
此度貴兄も管理局評議員に任命せられ国家的職員の一人となりたるに就而は是れ實に従来の個人的山下に進化する初段なれば其積りにて一個の利害得失等に顧慮せず国家の利害を主として其範囲内に於而自家及同業者の利益を擁護するが如く言動するの要ある事勿論に御座候。而して如此政府員を交えたる評議員に臨むには出来得る丈口を利かず成るべく人に物を言わして置きて最後に止めを刺すが秘訣にて初めから口を利いたら取り返しの附かざることと可相成又自分に疑わしいと思うた事は必ず後日発言の余裕を残し暫定的に突進せざる事必要なり。尚ほ此際に天下(日本)一般に対し山下の品格を認めしむる最上の好機会なれば堅くなるは無用なれど態度言動を一層厳正にするは勿論曾て咄したる献金等も此の際に断行し一方に於而衋すべき義務を果たし他方に於いて主張すべき處を飽く迄も貫徹するが宜敷但し其主張たるや前陳の国家的に割出したる主張たるを要し候。又此際同業の利益を擁護する為に策略や運動がましき事は一切なされまじくよし之に依り一時の目的を達するとも他年の発展に一大障害を残す事必然と確信いたし候。右はお考えもあるべけれども心附き候儘申進置候。昨夜の暴風にて小家お大分痛み候為め明日小田原に出発の筈の處二日許り延期いたし候。多分四日参り可申候。小田原別業の松樹は倒れざりしや必ず多少の被害ありし事と存候。 匇々
十一月一日 眞之
山下仁兄侍吏
石原氏の電文
2月1日に石原慎太郎氏が89歳で亡くなり、吉田山下家からブロガーに「つなぐ」
へ載せる慎太郎氏のことについて寄稿を頼まれた。
自書『トランパー』に石原家のことを書いたのでブロガーにお鉢が回ってきたのだろう。
石原兄弟の父・潔は、宇和島中学を中退して、吉田町出身の山下亀三郎が創立した山下汽船に勤めた。
潔の父親は警察官で南予に赴任して、吉田町にも住んでいたという。
石原兄弟は、神戸で生まれ小樽で育った。潔の転勤で湘南の厨子に引っ越した。
ここで芥川賞の『太陽の季節』が生まれ、裕次郎が映画デビューした。
『トランパー』にはいろいろ石原家のことを書いたが、吉田三傑の山下亀三郎、
清家吉次郎の没70,80年祭に慎太郎氏からの電報にも触れた。
この電文は慎太郎氏のブレーンが書いたようで、本書には記載できなかったが、
中々の名文だったので、エッセイに書かせてもらった。
昔、ブロガーの会社が山下汽船の子会社と合併したとき、先輩から「石原兄弟はよく会社に来ていた」という話を聞かされたことがある。家長をなくした兄弟に会社や仲間がカンパ金を集め奨学金として渡したそうだ。
葉桜や海の男は散りにけり
がいな男 (4)夜逃げ
亀三郎自伝「沈みつ浮きつ」には、(私が明治24年横浜に流れて行って云々)とあるが、長い放浪の末、横浜に舞い戻ったのは正解だった。
横浜港から出航するロンドン行きの土佐丸の雄姿を見て、船主になる夢を抱いた。
また先端産業「石炭」を扱う竹内兄弟商店に採用されたことで、ベンチャー起業する足掛かりとなった。横浜はがいな男にとってゲンのいい所となった。
当時、横浜の料亭「富貴楼」には伊藤博文、山縣有朋、大隈重信、大久保利通、陸奥宗光など明治の元勲がよく出入りした。一般の横浜商人は住吉町の料亭「千歳」で遊んだ。渋澤栄一の従兄・喜作などもここで遊んだ。千歳の女将おこうは富貴楼の元女中で、花柳界の女傑といわれた女将のお倉に仕込まれた。
がいな男は、米国貿易商会の池田支配人に千歳へ連れていかれ、おこうに茶屋遊びを教わった。がいな男は夜の世界で横浜の豪商に顔が売れ商売につながるのである。
がいな男 (3)放浪時代
放浪することを英語で「Tramp」という。海運業界のトランパーというのは、不定期船のことで、より良い荷物を求めて世界の海を放浪する。
定期船はライナーといって決まった航路を決まったスケジュールで運航する。
陸上交通でいえば、ライナーはバスでトランパーはタクシーのようなものである。
海運会社に入ったら、ライナー部門よりトランパー部門の仕事に就きたいという人が多いという。自分の才覚で船を動かし、利益を上げることが魅力なのだろう。
がいな男は裸一貫で船を持ち「社外船」として気を吐いた。
(社船とは日本郵船、大阪商船のように国から助成金をうける会社)
家出した亀三郎は、迷える子羊、まるでトランパーのように日本各地を放浪した。
がいな男 (2)放蕩息子
がいな男(山下亀三郎物語)を内航新聞に寄稿するタイミングに、「内航海運暫定措置事」という規制制度が終わった。ブロガー入社は昭和42年、そのころ「船腹調整規程」が始まった。スクラップ&ビルドという条件が課せられ船の建造に足かせが付いた。それから55年経ち、やっと内航は「海運フリー」となった。
規制緩和でビジネスが変わる。内航海運もイノベーションへの期待が大きい。
がいな男/山下亀三郎が船を持ったのは明治36年で、青雲の志(ベンチャー精神)旺盛な若者が大きな夢を持つ時代だった。
さて、がいな男は明治15年、故郷を出て世間の風(Against)に立ち向かう。
「海運王」と呼ばれるのは、ずっと後のことである。
がいな男 (1)生い立ち
単行本『トランパー』(愛媛新聞サービスセンター発行)および
ブログ本『吉田三傑』3冊(自主出版)に続いて、『がいな男』を執筆しました。
これは昨年、某新聞社の○○賞に応募しましたが、がいな事にはなりませんでした。
然しながら、海運業界紙の「内航海運新聞」にコンパクト版(14万字⇒5万字)を掲載させてもらえることになり、今年1月31日付けから連載されています。
当新聞は、毎週月曜日に発行されます。すでに掲載された記事を本ブログに投稿します。まずは第一回(生い立ち)をアップします。
がいなとは、愛媛の方言で、「すごい、たいへん」という意味です。
―—本編の主人公「山下亀三郎」という男は、とてつもない金を稼ぎ、とてつもない金を社会のために使った。
地元(愛媛県宇和島市吉田町)の親たちは子供らに、「山下亀三郎という人はのう、がいな男やったんぞ」といい聞かせたものである。——
★これは、『内航海運新聞』令和4年1月31日付けの記事です。