西国の伊達騒動 10

吉田藩紙騒動(3)法華津屋 

 さて、話を紙騒動に戻すと、作之進が活躍する吉田騒動は、江戸後期にかかる頃であった。

 江戸初期、伊予吉田藩が発足する前、寛永十年(一六三三)には鎖国令が敷かれ、それ以降、外様大名は参勤交代の制度化で、莫大な経費の捻出に四苦八苦していた。

 いつの時代も、そのつけが回るのは下々の百姓らである。藩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と度重なる享保天明の大飢饉で吉田藩の百姓共は悲惨を極めていた。

 吉田藩は財政立て直しのため、製紙事業を専売制にして、利益を揚げんと躍起になった。

 特産の泉貨紙(せんかし)は楮が原料で、吉田藩領の山奥組は楮の栽培と紙漉きが生活の糧となっていた。

 吉田騒動の二十年前、安永元年(一七七二)に、楮の仕入れを村ごとに御用商人を指定するという規制が行われた。

 吉田藩の御用商人に、法華津屋という大店があった。

 法華津屋は、吉田藩分知の頃から開業しており、元は宇和島藩士、高月小左衛門の子孫で、「叶」を屋号とする高月與右衛門と「三引」を屋号とする高月甚十郎の両家が幅を利かしていた。

 他に大阪屋又之進という商人が居たが、この三人が所謂「入山」と称して、山奥組の目黒村・吉野子村・上大野村などの村々は、この御用商人にしか楮を卸せなくなった。

 これでは百姓はたまったものではない。紙の原料が指定の三商人しか売れなくなり百姓は、買いたたきで困窮した。そもそも山奥組の百姓は、副業に紙漉きをやって家計の足しにした。

 昔の宝暦年間(一七五一~一七六四)には、和紙を買う商人は十人ほど居り、売買も自由に出来た。しかし専売制になり段々廃業する店が出た。

  紙漉きは設備に金が掛かる、諸々の費用を楮元銀と称し御用商人が百姓共に貸し付けた。

 初めの頃は、庄屋百姓が津出し(年貢納入)や楮元銀の返済で吉田表に来た時、商人らは山奥組の者をもてなした。

 吉田藩陣屋の町内は、お祭りがあると近郊から大勢集まり大変なにぎわいだった。

 藩祖の宗純公は、寛文四年(一六四四)南山八幡神社神幸祭として「吉田祭禮」を始めた。

 お祭りには、武中町の藩士も「御用練り」、「御船」で粛々と練り歩いた。また、町人町の八ヵ丁から繰り出す山車は贅を凝らし、豪華絢爛に町内を曳きまわした。

 祭禮には、山奥組の庄屋連中も法華津屋から、接待をうける良き時代があった。

 所が、吉田藩の財政が段々と厳しくなり、和紙の専売制を敷いたため、貸主の御用商人は手のひらを返したように、高慢な態度をとるようになった。

 楮元銀の利子を上げ、百姓の貸金取り立てに駕篭(かご)に乗り、庄屋所ではまるで代官のように座敷に詰めた。その上、店の手代を使いにやり、庄屋や組頭を挨拶に来させた。

 百姓は、丹精込めて育てた楮、三椏を指定の「入山」にしか卸せない。紙漉き百姓は指定の商人から原料を仕入れ、何工程もの作業を経て和紙を造る。

 その一連の仕事が専売制では百姓の取り分がない。おまけに紙漉きの設備資金は御用商人が高利で取り立てる。

 現代では、独占禁止法で禁止されている優越的地位の濫用で、摘発されるが、この頃は、弱い者が痛みつけられる封建時代だった。

 専売制が始まった安永年間に、高野子村で和紙の抜け売があった。役人が法華津屋「叶」與右衛門の手代と、高野子村の嘉膳太夫を取り押さえ吟味した所、高野子村の紙を他所の紙と偽り「叶」の手代に売ったと白状した。

 金回りが悪くなった紙漉きは、こっそりと高値で買う他の商人に抜け売で凌ぐしか仕方なかった。 

 さて、安永から二十年後、寛政の始めに、鈴木作之進が、郡奉行の中見役となって山奥組に度々出向くことになった。

 作之進は、気さくに百姓共に声をかけた。

「どうだ、ことしの楮は? 」

と村々を聞いて回った。紙漉きの状況を調べるのは自分の役目ではないが、藩の財源が紙に頼っているので気にかかっていた。

 ある日、作之進は山奥組方面に出掛けた。吉田藩陣屋町から東の山奥までは険しい山々が続く厳しい道である。二三日は逗留することになり、出目村の番所で村々の庄屋、組頭に会って世情のことなど情報を交換した。

「両高月屋には困ったものだ……」

と、まず作之進が口を開いた。藩の内情を漏らすのに躊躇したが、信頼する連中なので、話を続けた。

 「法華津屋の叶、三引は、もう楮の仕入れは出来ないと申すのだ。最近は村々の紙が少なく、借金の取立ても滞っている。それと町内の大火事で出費が多く、難儀していると嘆いている」

 「そうやのう、吉田の街は百軒も焼けてがいなことやったそうで、宮野下の者がいうには西の空が赤く染まったそうな」

と、興野々村・庄屋の新次郎は、大火事の話をした。

 吉田の大火事は、天明年間に家中町本丁の松下、玉造、郷六、村田などの武家屋敷が並ぶ一角から出火し、北は御殿前から南の本丁を下った所まで類焼した。

 寛政二年八月に、魚棚町大洲屋から出火し魚棚三丁目と本町三丁目の二十四軒が燃えた。

 寛政三年十月には、本町一丁目塩飽(しわく)屋長右衛門の後家の家から出火し、本町一丁目二十三軒、裡町一丁目四十軒、二丁目二十二軒を焼失し、更に大工町裡の御弓之町屋敷まで類焼する大火事となった。

作之進は更に続けて、

「その法華津屋が申すには、大坂方の借金も膨らんで、いざ御用の時には財政に差しさわる。このままでは楮の仕入れは出来ないので、もう紙の商売は止めたいというのだ」

 庄屋らは法華津屋がえらい事を言うもんだと、呆れかえった。

 

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(左:法華津屋 三引本店/魚棚1丁目の店舗部分の建物を復元)

 (右:三引高月家 鬼瓦/魔除けと装飾を兼ねている)

  =2015.5.6ブロガー(国安の郷)で撮影=

 

 

 

 

西国の伊達騒動 9

三代吉田藩主と松の廊下事件

 元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の廊下で起きた事件は、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央に「此間の遺恨覚えたるか」と刃傷に及んだ椿事である。

 これは西国伊達藩の騒動ではないが、この事件に伊予吉田藩三代目藩主の伊達左京亮宗春が係わっていた。

 この年、勅使饗応役は浅野家で、伊達家は院使饗応役だった。

 公家様の接待役は、一万石から七万石程度の外様小大名が務めており、伊達宗春は、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定の饗応役に任じられ、その指南役が吉良義央であった。

 この有名な事件は、忠臣蔵赤穂浪士討ち入りとして、芝居や映画、TVで国民の人気を博している。

 ブロガーは、最近二つの情報を知り、この事件の背景が少し分かった気がする。

 一つは、平成二十七年(二〇一五)、宇和島伊達四〇〇年祭記念として吉田町公民館ホールで上演された『新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵』という芝居での話。

 この芝居は、監督・大西正一氏で、脚本は郷土史家の宇神幸男氏、演者九人は総て素人の地元市民だった。

 芝居は、伊達家と浅野家は「不通大名」の関係だったという筋書きだった。芝居の中で浅野長矩が、伊達宗春に「この四国の城なし大名が云々」と見下しているシーンがあった。

 「不通」の伝説を調べると根が深く、広島藩主の浅野長政仙台藩伊達政宗の時代まで遡る。政宗は、豊臣五奉行の一人である浅野長政にいろいろ頼みごとをしているが、中々聞いてくれない。長年そのような状態が続き、遂に政宗は堪忍袋の緒が切れ、長政との絶縁を宣言する。

 もう一つの情報は、昨年、松山市で開催された「秋山好古生誕祭」で、母校吉田高校の元校長から聞いた話である。

 この校長は、自書『トランパー』に関して、山下汽船に入社した石原潔(石原慎太郎裕次郎の父親)が地元出身の人で、石原家の末裔が大洲に居られるという事と、突然、「松の廊下事件」に関する話を始めた。

 それは、校長が大洲市新谷の出身で、地元の歴史に詳しく、大洲藩の分家新谷藩一万石の殿様が、院使饗応役を務めた事があるという。しかも刃傷事件の前年にお役目を終えたばかりだった。

 校長は、新谷藩が吉田藩と親しく交流があり、伊達家に入れ智恵をしたのではという事であった。

 宗春は此の時、十九歳で江戸詰め、まだ吉田入りしていない。多分、饗応役に決まってすぐに、吉田藩家臣は新治藩側に、種々アドバイスを求めたのではないだろうか?

 元禄時代の松の廊下事件は、宗家が不通だった為、赤穂・浅野家と吉田・伊達家が、旧来の慣習を守り、饗応役の情報を十分に共有することが出来なかった。それが事件の一因と推測される。

 また、吉田藩は、院使饗応役を務めた新谷藩が、近隣の大名だったという幸運に恵まれた。

 親交のある大洲新谷藩が、初めてお務めする弱冠十九歳の宗春のブレーンに、高家吉良への進物のことや、上野介の性格まで教授した。それで吉田の若殿は、無事お役目を果たしたのだろう。

 宗春は、正徳三年(一七一三)八月十五日、官位を和泉守に改め、享保十年(一七二五)十二月二日に若狭守となった。諱を宗春から村豊(むらとよ)に変えた。

 伊達浅野の両家が完全に和解したのは、平成六年(一九九四)、四百年もの間の確執がやっと雪解けとなった。

 『新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵』のDVDが、田舎から贈られ拝見したが、素人衆の芝居は中々大したものだった。

 特に吉良上野介役は、吉田高校の元PTA会長で玄人はだしの演技だった。

 芝居の冒頭は創作であろうが、赤穂浪士吉良家討ち入り後、大高源吾が伊達屋敷に現れた。

 大高は、伊達家家老に十二月十四日の句会、茶会が開かれることを教えてもらった謝礼をし、俳人源吾(子葉)は、

「日の恩やたちまち砕く厚氷」と詠み、宗春に下の句を求めた。

宗春は「雪うち払い咲く寒椿」と返歌した。

 今、東京両国橋の東側の袂に、本懐を遂げた後の大高源吾の句碑「日の恩や……」が立っている。

 因みに、大高源吾辞世の句は「山を裂く力も折れて松の雪」

 

 *この芝居は、 ユーチューブにもアップされている。

【新説・松之廊下~吉田伊達家の忠臣蔵~】

 

 出典:  (ユーチューバー citrus unshinu)

 

 

 

 

西国の伊達騒動 8

山家清兵衛(やんべせいべい)事件

 四国の三大お参り所は、四国八十八カ所参り、金比羅参り、和霊さん参りと言われている。

 宇和島市の「和霊神社」は、伊達宇和島藩・家老の山家清兵衛を祀っている。

 西国の伊達二藩には様々な事件があったが、宇和島藩の創成期に起きたこの事件は、仙台の伊達政宗を激怒させた。

 政宗は、息子秀宗の宇和島入部に先立って、忠誠剛毅で文武に通じ、理財にも明るい部下「山家清兵衛」を宇和島に送った。

 慶長二十年三月、山桜が咲き始めた頃、清兵衛は秀宗一行を出迎えた。

 宇和島藩十万石の伊達家には、家老桑折左衛門、桜田玄蕃など高給取りが揃ったが、財政を預かる清兵衛は、新天地での運営に頭を悩ました。その上、仙台本藩の政宗公から当座の運転資金として六万両を借りている。

 几帳面な惣奉行の清兵衛は、

(大幅な減俸を行い政宗公へ返済をする)

と殿様らを説得した。その厳しい施策に家臣から、

(そんなに急いで返す必要があるのか)

(百姓共から搾ればよいではないか)

などと、喧々轟々の声が上がった。

 清兵衛は、新領民が前領主の重税で、疲弊困憊している状況を知っていた。これ以上の重い年貢を百姓に課せられない。一揆が起きてお家が改易にならんとも限らない。 

 政宗は、京や大坂での栄華な生活になれている息子秀宗に、

「清兵衛の言うことはわしの言葉と聞け!」

と、仙台本藩で算用頭をしていた清兵衛を、監視役に付けたのである。

 元和三年(一六一七)正月、仙台本藩から借金六万両返済の催促が来た。清兵衛は大広間の御前会議で、政宗公御存命中は三万石を献納すると衆議に反して採決した。

 政宗公の息のかかった惣奉行に誰も反論できない。

 清兵衛は、藩士の質素倹約を励行、さらに御用達米を禄高の割合で藩に差し出させた。事実上の減俸で家老桜田玄蕃など禄高の多いものは大反発をした。

(おのれ、清兵衛にくし)

 家中大多数の反山家派が、清兵衛を排斥しようと、殿様に讒訴(ざんそ)した。

 元和六年六月二十九日の夜、十数名の刺客団が、山家邸を襲った。清兵衛は蚊帳の中で殺され、無残にも四男は池に投げ込まれた。子供、忠僕など八人が惨殺された。山家清兵衛公頼、御年四十二歳だった。

 この報に政宗は、

(父命で補佐申し付けた清兵衛を何等過ちなきに、家中の者私怨により討ち果し、秀宗之を不問に付すとは父を蔑如せる罪大なり、公儀に向かって宇和島藩改易仰せつけらるべき願い達せしにつき、追って沙汰あるまで謹慎いたすべき)

と、厳達した。

 その上で政宗は、時の宿老・板倉周防守重宗に、

(秀宗は若輩浅慮、到底一藩を率いる器量なく、改易仰せ付けられれば有難き仕合せ)

と上書した。

 しかしこれは政宗の知恵で、幕府へ先手を打っての一芝居、公儀格別の思召しありと踏んでいた。

 数奇な運命に翻弄された秀宗は、ついに配流か隠居を覚悟して只々謹慎していた。

 政宗は、清兵衛の霊が(おのれ一人の為に改易となっては罪障消え難し、秀宗公、一家中を救い給え)と夢枕に立つので、

板倉周防へ、

政宗存寄り有之今暫く秀宗行跡監視致すべき」

と上書を取り下げた。

 これで宇和島藩は改易取り止め、お家安泰となった。

 非業の死を遂げた山家清兵衛の怨念か、十二年後、政敵桜田玄蕃は秀宗夫人の大法会に、本堂の梁が強風で倒れ下敷きとなって即死した。

 その後も、事件関係者が次々に海難・落雷などで変死した。

 また慶安二年(一六四九)の大地震、寛文六年(一六六六)の大洪水、享保の大飢饉などの天災や、二代藩主宗利の男子が夭逝したことも清兵衛のたたりと言われた。

 流石に秀宗も清兵衛らの霊を慰める為、児玉明神(みこたま)として祀った。

 その後、承応二年山頼和霊神社と改称され、享保十三年に和霊大明神となった。

 霊験著しく参拝者のあとを絶えず、伊予一円はもとより四国中国九州から水難疫癘(えきれい)を排除し、福徳を授かると現代まで和霊神社は参拝する人で賑わっている。

 

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  (和霊神社坂本龍馬脱藩140年記念/2015.9.26撮影)

*土佐坂本家の屋敷神も和霊神社で、宇和島の本神社から分祀した。文久二年に龍馬が土佐藩を脱藩する時、土佐・和霊神社に祈願したという。

山家清兵衛を祭神とする和霊神社分祀社は全国に200ほどある。

 

西国の伊達騒動 7

山田騒動

 吉田藩紙騒動は、土佐藩との国境が発祥地である。

吉田藩の発足後に起こった大事件も、元はと言えば土佐者が絡んでいる。

 それは、天和三年(一六八三)の「山田騒動」で、元土佐藩士が吉田藩を牛耳ろうとする野望から発したものだった。

 この事件は、司馬遼太郎著作『馬上少年過ぐ』の(重庵の転々)という短編で紹介されている。

 宇和島、吉田には大作家を魅了する歴史ネタがあるのだろう。

司馬遼太郎吉村昭が伊達藩について多くの著書を出している。

 (重庵の転々)を参考に話を進めると……、

 あるサムライ、元土佐藩士が国境の山を越え、吉田領内に住みついた。山奥の深田(ふかた)村に医者として入り込み、山田文庵(重庵)と名のっていた。

 それが、深田にきてわずか二年で名医として文庵の名を山奥一帯にとどろかせた。しかし文庵は、ある男がもたらした情報で山を下りることになった。

 その男は、村に出入りする藤七という得体のしれない者だった。文庵はこの男を、宇和島藩密偵か、それを見張る吉田藩の者か、どちらかと睨んでいた。

 最近は、山奥にも宇和島密偵が入って居る。宇和島藩の財政を立て直すには、分知した三万石を取り戻すしかないと、吉田領内で百姓などを煽動し一揆を起させようと企んでいたという?

 宇和島藩の中には、江戸幕府が吉田三万石を公認した御朱印状を盗もうという者までいた。

 文庵は、物売りの格好をして頻繁に出入りする藤七に、宇和島へ薬の材料を買いに行かせたりして重宝に使っていた。

 ある日藤七が、吉田藩の殿様伊達宗純に大きな腫物が背中に出来て、明日をも知れぬ命と打ち明けた。

(藩主の容態のことまで知っているのは、やはり吉田藩の者か)

と見抜いた文庵は、藤七に案内をさせて吉田陣屋町に入った。

 これまでの侍医の治療では、殿様は一向によくならない。文庵は、殿様に荒療治を施した。患部に調合した薬をぬり、しばらくして膿(うみ)が出始めたとき外科手術をした。

(といっても焼いた針を患部に突き刺しただけであるが)

殿様はさすがに大声をあげた。

 その悲鳴をもろともせずに文庵は、患部に唇を当てて膿を吸い始めた。強烈な痛みに殿様は、のけ反って気を失った。

しかしこれが功を奏したのか、殿様は一命をとりとめた。

 延宝二年(一六七四)文庵はこの功績を認められ、二百石で藩の御殿医として召し抱えられた。

 文庵は、元土佐藩士だけあって剣腕(うで)が立つ。ある日、山根将監という兵法者が御前試合を挑んできたとき、藩の兵法指南役が討たれ、だれも立ち合う者がいない。

そのとき文庵は、手負いの者を手当てすると思いきや、倒れた者の木刀をひろい将監に向かった。機敏な動作で将監の鎖骨、肩の骨を砕いた。

 殿様はひざを叩いて、

「あっぱれ!あっぱれ」と無邪気に喜んだ。

 出来過ぎた話ではあるが、その後、文庵は殿様に政治向きのことまで口をはさむようになった。

吉田藩の財政事情をよく調べ、自分なりの改革案をもっていた。

(小藩にしては重臣らの石高が多すぎる)

と殿様に言上した。

 明暦三年の吉田分知のときの、知行高は、

 家老の井上五郎兵衛が千三百石、尾川孫左衛門が千石、朝倉内蔵之助が八百石、甲斐織部ら三名が五百石、戸田藤左衛門ら五名が四百石など、合計七十八名、一万九千四百石の知行高となっていた。

 殿様は文庵の言うなりに大改革を断行した。

 先ずは、ことも有ろうに高給取りの家老が粛清された。筆頭家老の井上五郎兵衛は延宝元年、江戸にて職務怠慢を理由に御暇(おいとま)となった。尾川孫左衛門は、延宝五年吉田で御暇となり家禄を召し上げられた。

 更に五百石の甲斐織部らの名前が挙がったが流石に殿様は、

(これまでにとどめよ)といって粛清は止まった。

 これらの働きで、文庵は天和元年(一六八一)三百石を加増され、遂に筆頭家老に抜擢、名を山田仲佐衛門と改めた。

 家老となった仲佐衛門は、なんと二千坪もある井上五郎兵衛の空き家に入った。

 奸物と疎まれた筆頭家老に世間の目は厳しい。出る杭は打たれる、粛清対象の甲斐織部らが動き出した。

(仲佐衛門、恐ろしや、お家を乗っ取るのではないか)と、やり過ぎた粛清、首切りに大反発、仲佐衛門悪行のデマを流した。

 宗家宇和島藩まで行ってその行状を振れまわったが、宇和島藩はすでに密偵を入れて、

(吉田藩が大騒動になっている)と状況を把握していた。

 宗藩は、もっと騒ぎが大きくなれば江戸幕府に聞こえ三万石を取り戻せると、甲斐織部らの話を聞かなかった。むしろ騒ぎをけしかけていたのである。

 天和三年(一六八三)十一月二十八日、仲佐衛門のやり方に義憤を感じた足軽など、軽輩の者が決起した。

 長兵衛、徳兵衛、覧右衛門、四右衛門、五右衛門、三助、四平、久助らで、彼らは御小人組(おこびとぐみ)に属していた。元は地元の百姓で、屈強の若者が足軽として召し抱えられていた。

 藩に対し忠誠心の厚い彼らは、奸物仲佐衛門に天誅を加えようと、御殿前の松林で仲佐衛門を待ち伏せした。

しかし同士の一人が恐れをなして、お上に事の企てを漏らした。

 何と、同士の前に現れたのは捕り方だった。捕らえられた八人は切腹を命じられた。

 これを聞いた殿様は、お気に入りの草履取りの四平だけは、助けようとしたが、

(同志に面目ない、四平はすでに死にました)と、お上に言ってくれと告げて腹を切った。

 憐れ八人の遺体は切腹の場、普門院に埋められた。後年、吉田町大工町の丘の上には、墓碑が建てられ廟所が建立され、今でも地元の人が「八人様」と呼んで供養の線香が絶えることはない。

 その後も甲斐織部らは、仲佐衛門の排除に躍起になった。

(参勤で江戸に行ったとき仙台藩にすがろう)

と、江戸に着いた一行は直ぐに、仙台藩江戸屋敷に向かった。

 家老の柴田内蔵(くら)に山田仲佐衛門の悪行を訴えた。柴田は仲左衛門を江戸に呼び寄せた。

 仲左衛門は初めて帆船に乗った。吉田湊を発つ船から、

「なぜわしが江戸に行かねばならぬのだ」

と呟きながら吉田の山々を眺めた。海から見る山は実に美しい、しかしこれが見納めとなり、仲左衛門は、再び吉田の地を踏むことはなかった。

 帰らざる航海、船は大坂を目指した。東海道を江戸に向かい八丁堀の江戸屋敷に着いたのは一か月後だった。

 早速、仙台藩柴田内蔵から呼び出しがあった。仲左衛門の弁明は理路整然で、柴田を驚かせた。

(この様な者が四国の西端、伊予吉田藩に居ったのか)

 この尋問で仲左衛門は、政治哲学を述べた。その調書の筆写本は、後年の伊達藩主の必読書になったという。(司馬氏)

 甲斐織部らとの談判も仲左衛門がまさった。しかしお家を騒がせた不届き者と、本来は切腹が当たり前のところ、藩主宗純が柴田宛に書状を認めた。

「仲左衛門を元の文庵にもどしてやってくれ」

と記されていた。

 宗純が江戸屋敷で仲左衛門に接見したとき、

「そちから命を助けてもらったことは忘れていないぞ」

と、言った通りに殿様は、仲左衛門の命を助け、恩を返したのである。

 貞享二年(一六八七)甲斐織部は、五百石の知行を召し上げられた。仲左衛門の身柄は仙台に送られ、仙台藩伊達綱村にお任せ、藩にお預けとなった。放浪者の文庵は土佐から転々とし余生を仙台の町医で過ごしたという。

 将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」を発した貞享の頃だった。

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(八烈士の供養碑 出典:新宇和島の自然と文化) 

西国の伊達騒動 6

吉田藩紙騒動(2)百姓一揆前夜

 広見川上流の山間部の百姓は、紙の原料である「楮(こうぞ)」の木を栽培して生活の糧にしている。山奥には、マタギ、樵(きこり)、炭焼きも暮らしている。

 百姓の中には、楮の木や畑を荒らす猪、鹿など狩猟に使う四匁の鉄砲を持っている者が多くいた。それは昔から土佐との境でいざこざが多く、侵略者に対する自衛のためでもあった。だが銃を持つことは一揆を起した際、藩に抵抗する道具にもなった。

  作之進は、役目柄から山奥組の百姓らに酒を飲ませ、菓子を振る舞い気さくに話すので、地元の者には信頼が厚かった。

 *****

 年の暮れの落陽は早い、遠く西の空は真っ赤に燃えている。

明日は更に山を登り、一揆を企んでいる領域に入る、作之進は英気を養うため直ぐ布団に潜り込んだ。

 三人の庄屋は、早速イビキをかいている作之進の布団を見て、

「鈴木殿はお若いのに、がいにしっかりしているのう」

「頼もしい限りだ、お奉行が作之進殿に、何でも仕事を任しているそうじゃが、たいしたもんじゃのう」 

 満天にキラ星が輝き、山の冷気がしんしんとする中、作之進の高イビキだけが山小屋に聞こえている。

 翌二十一日早朝、作之進らは小屋を出た。

 庄屋たちは自分の持ち場に分かれて行った。作之進と下役人らは昼過ぎにやっと高野子村に着いた。

 冬とはいえ険しい山道を急ぎ上ってきたので、さすがに汗ばんでいた。番屋に着いて一息するうちに、村の見慣れた者が現れた。作之進が楮の出来を調べに時々山奥を訪ねるが、その時の百姓の一人だった 。

「鈴木様、今日は又どうされました?こんな年の瀬に何かありましたかのう」

 作之進が何時も声をかけている者であるが、特別に芝居をしている様には見えない。

「別段何もないが噂を聞いて参った、小頭を呼んできてくれ」

と普段の口調で話した。

 やがて年寄りの小頭役人三名が駆けつけて来た。作之進が一揆の噂を聞いてやってきた事を一通り話した。

 小頭の一人が言うには、

「その噂は薄々知っていますが、百姓らも気の小さなものばかりで、大それたことはやりますまい」

 作之進は、百姓一人では何も出来ないだろうが、大勢が集まると群集心理でどうなるか分からないと危惧していた。

「知っていることをすべて話してくれ」

と小頭の皆に目配せして言った。するともう一人の小頭が、

「川筋の者らが日向谷の奥を誘い出し、皆電(かいでん)越しで高野子を誘うと聞いたが、容易に誘いには乗らんでしょう」

 作之進は、山奥までやって来て、直ぐには騒動の気配がないことは分かったが、百姓の願い事が何であるのか把握できていない。それで、

(詳しくお上に聞くことがあれば正月明けに願いをすればよい。願い事十が十ながら叶わぬ時は、郡奉行も御役の手前もあり間に立つつもりだ。そういうこともしないで、突然に訴え出て、罪人が出たとあれば、その願いは差し戻すことになる)

と庄屋らに念を押した。

 この日、作之進は、小頭らに夜中、村内を見廻る様に申しつけ、延川村に止宿した。

 また、庄屋の竹葉蔵之進、丈右衛門、嘉平治は、暮の忙しい時なので、前日に帰宅を許していた。部下の嘉久右衛門は川上村に、弥惣治は小松村にそれぞれ止宿させたが、楮の作業場など全く静かな様子を伝えて来た。

 村に何の異変も感じなかった作之進らは、翌二十二日に山を下りた。 

 こうして吉田陣屋の街に戻った作之進は、居酒屋「宮長」で夜遅くまで呑んでいたが、

(鈴木様、そろそろお帰りにならないとお体に障りますよ)

という主人の声で目が覚めた。

 外に出ると月夜である。すると東の遠見山から西の犬日山へ大きな星が流れた。何かの予兆か、はたまた酔いのせいであろうか……。

 横堀番所を抜け、家中町に入る。お歴々の屋敷がつづく、家老・安藤継明の屋敷前を通り、本丁へ出ると、櫻田、郷、越智、村田、宅間、井上、飯渕、尾田の屋敷が続く、もう直ぐ中見屋敷にたどり着く。

(しかしあの文の女は一体誰だろう、山奥々と場所まで書いているのは、未然に一揆をやめさせたい一心からであろうか)

千鳥足で歩きながら作之進は、まだ考えていた。

(やはり2年前に泉貨紙を専売制にしたのがまずかったのか。最近では紙方役所の取締りも度が過ぎていると思う。山奥の更に奥から直訴するというが、あの辺は土佐藩との境だが、土佐者が百姓共をそそのかしているのか……、)

 八年前の事である、天明六年に土佐宿毛一揆が起こった。

重税で困窮している農民、町民らが一斉にほら貝を鳴らし寺々の鐘を叩いた。千人の者が一斉に訴えたので首謀者が分からない。領主は要求をのみ一揆は犠牲者を一人も出さなかった。

 土佐藩と接するこの山奥で一揆を企てるというのは、数年前にあった土居式部騒動や宿毛一揆を真似たものではあるまいか。

 百姓どもに(徒党を組んで宗藩の宇和島へ訴えろ!)

と、知恵を付ける他藩の者がいないとも限らない。それとやはり宇和島藩の陰謀が絡んでいるのか?

 作之進ら下級役人は、仙台伊達の流れをくむ藩士と違って、地元採用組で土佐者を心底きらっていた。

 伊予の南宇和一帯は、戦国時代に土佐の一条家、長宗我部一族が山を越えて侵入した土地である。鬼北、三間の美田は長宗我部一族などが、乗り込んで収穫まじかの稲をきれいに刈り取って持ち去った。

 

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 (鬼北町日吉夢産地へ向かう)(日吉から広見川の上流を望む)

        =2018.3.22 ブロガー撮影=

西国の伊達騒動 5

吉田藩紙騒動(1)百姓一揆前夜

 さて、寛政四年に話しは戻る。

 鈴木作之進は居酒屋「宮長」で酒を呑みながら七年前の式部騒動を思い出していた。

 今度の騒ぎも百姓たちの不平不満が根柢にあるのではと、心に引っかかるものがあった。

  しかし、作之進がその気配を察知したのは、つい最近のことであった。

 十二月の始めだったか、

(山奥組の百姓が吉田藩に直訴する!)

という噂が聞えて来た。だがその方面の庄屋や同心に内々で尋ねてみたが、

(そのような事は聞いてもいない)

どうもガサネタのようである。

 十二月十九日早朝、作之進のもとへ文が届いた。

届けたのは山奥組の者だ、と言って

「差出人のことは聞かないでもらいたい」

と素早く立ち去った。

(朝早くこっそり文を届けるとは何事だ)

早速、文を開けると、どうも女の文字のようである。

(明日二十日の夜、山奥々より誘い出す)

と簡単な内容であるが、

(誘い出すとはどういうことだ、仲間を集めて一揆を起そうとしているのか?)

 女の文を手に、作之進は思いをめぐらしたが、

(女は山奥で何か起きる事を恐れ、これをやめさせようと文を寄こしたのだ)

と作之進は思った。

 文には山奥々と書いているが、それは土佐藩領に近い日向谷村、高野子村辺りの事だろう……。

 作之進は郡奉行へ急いだ。この内通を奉行に報告すると、奉行の小島源太夫は、作之進に、

「すぐ出立し、三間の庄屋衆に取鎮めるよう申してこい!」

と指図した。

 作之進は、庄屋衆に収められる様なことではないと内心思ったが、楮元の庄屋らが吉田に逗留中なので急ぎ帰らし、足軽の弥惣治、喜久右衛門を従え十九日夕七つ時分に出立した。

 同僚の中見・沢田義右衛門は、妻が出産で血忌(ちいみ)につき休んでいる。

(藩の危急時に勤めを休むとは何ごとだ)

と思ったが、自分も式部騒動のとき血忌で休んでいる。

 作之進ら一行は、夜中に山を越え三間村の中野中村へ着いた。

 すぐに足軽の弥惣治へ村の小頭一人を付け、山奥の小松村へ行くように申し付けた。ここから五里はあるので、夜通しの事になるが作之進は、

「村の様子次第では急ぎ知らせるように」

と弥惣治に言った。

 同夜、作之進は近辺の庄屋、内深田村の竹葉蔵之進、古藤田村の嘉平治、中野中村の丈左衛門に、火急の事なので明日の早朝に弁当を持って山奥組へ来る様にと使いを出した。

 すると近くに住む丈左衛門が番屋に来て、

「実は昼間、小松村で日向谷村の庄屋井谷庄治にバッタリ出会って、井谷が言うには(日向谷、下鍵山は確かに様子がおかしい、百姓どもを鎮めないとえらい事になる)と聞いたので、直ぐに知らせねばと支度していた所です」

と言った。

 山奥の日向谷村の庄屋が血相を変えて言うのだから、あの女の文は益々真実味を帯びてきた。

 翌二十日に新たな情報が入った。

 高野子村(現城川町高野子)の番人喜平太の話では、

(山奥組は、今夜にも月を合図に出立して、川筋より村々を誘い出すとの噂がある。用意した品を持って夜通しで忍び出すと申している)

とのこと。川筋というのは広見川沿いの事で、上流の山奥組から岩谷村、小松村、延川村、出目村など下流にかけて多くの村が点在している。

 更に日向谷村の番人源吉の話でも、

(川津南村にいる土佐者の話では、百姓どもが集まって何か密かにやろうとしている)と喜平太が持ち込んだ話と同様である。

 これらの情報で山奥組と呼ばれている所が中心となって、何か大きな企てを謀っていると作之進は確信した。

(しかし百姓どもを束ねているのは誰だろうか……)

 作之進は山奥組の情報を持って来た番人喜平太に、

「これより吉田表に参り、直ちに御奉行衆に知らせるのだ」

と命じた。

 それから蔵之進、嘉平治、丈左衛門の庄屋たちと広見川沿いに山を登り、小松村番所まで連れていった。

 ここまで来れば、日向谷村、高野子村の山奥組までは近い。

「いや、山道ご苦労であった、今から村へ行ってもらうが、先ずは百姓らを取り鎮めることが大事で、越訴は天下の御法度で恐れ多い事、しかも年越しに事を構えるのは心得違いも甚だしい。願い事があれば、正月十一日を過ぎて順当に申し出るのが筋で、わがままを言うと罪人が出る、と諭して頂きたい」

と作之進は言って、

(古藤田村嘉平治は小松村、延川村の両村へ、中野中村丈左衛門は川上村へ、内深田村竹葉蔵之進は、上大野村組頭宅へ行って詰めるよう)と、持ち場を指示した。

 また日向谷村、上鍵山村、下鍵山村は、地元の庄屋井谷庄治へ任すことにした。

 作之進はこれまでの情報から、山奥組の高野子村が一番あやしいと踏んでいた。ここに郡奉行配下の役人を連れて行く事にした。

(山奥組の衆も困ったものだ、言い分が有れば先ず我々に申せばいいものを……)

と明日は険しい山をさらに登ってゆくので、年配の庄屋がしんどそうに、愚痴をこぼした。

 

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(JR宇和島駅前の案内図 2018.3.22撮影)

=右の山間部が吉田藩領地⑤日吉夢産地が百姓一揆の発祥地=

 

 

西国の伊達騒動 4

天明の土居式部騒動(2)

 翌十日、作之進は元宗村権現谷の満徳寺へ行って、村の様子を聞いた所、この村は至って静かである。

 作之進は更に、兼近村辺りまで足を延ばし、方々聞き回ったが詳しい事は分からなかった。元宗村へ戻り庄屋所で庄屋・彦之進と夜遅くまで村々の情報を聞いたが、何も変わった様子はないという。

 作之進は式部に、

(十一日朝、宮野下まで来てもらいたい)と文を送った。

しかし、翌日の昼前まで待ったが式部は来ない。

 作之進は、式部の動きに不信を抱いたが、会いたくないのであれば仕方ない、早々に三間村を発った。

 吉田表に着いて、中番所橋を渡り、御持筒組を抜け自宅に立寄ったが、臨月に入っている妻は産気づいていた。

「うーん、暫く待っておれよ、すぐに産婆を呼んでまいるから」

 作之進は三間の一件を直ぐに奉行に報告しなければならず、妻を産婆に任せて奉行所へ向かった。 

 代官は、作之進が九日出立して直ぐに、別動隊を集め捜査に出ていた。作之進は代官自ら出向くとは、新たな内通があったのだろうか、三間を発つのが早かったと悔やんだ。

 作之進が、やっと我が家に帰るとすでに女子が誕生していた。

直ちに女子出生で血忌(ちいみ=妻が出産した場合の夫の服忌)の届を出して家へ引きこもっていたが、十三日夕、明日より出勤せよと知らせがあった。

 十三日には土居式部も作之進の所へ来て、

(この度の噂で、三間まで来て寄宿したことは誠にお気の毒であった)と言うので、

(追々相談もあるので、先ず一両日は吉田表に逗留してもらいたい)と言って、小頭・市左衛門方に逗留させた。

 十四日、作之進が出勤すると、代官は吉田を出てから昼夜をいとわず捜索をしたという話しだった。代官は、詳しくは言わなかったが、相当な情報を得たものと作之進は推測した。

 十五日、奉行所で評定があり、

(式部は指示があるまでは逗留する様に)

と目付衆より市左衛門へ命が下った。

 しかし式部は、不穏な気配を察してか、すでに吉田を出て三間へ帰っていた。

 作之進は、式部を取り逃がしてしまう失態を恥じたが、時すでに遅しである。

 話は急展開するが、前から不審の疑いをかけられていた宮野下村の萬助と言う者が、村を出奔したという急報が入った。

 奉行は不審者を直ちに逮捕するよう部下に命じた。

 緊急の捕り方を組々から呼び寄せ、夜八つ時(午前二時)全員揃ったところで出発、七曲峠にて捕り方を手分けして捜索に当たった。

 作之進は明六つ(午前六時)時分、宮野下村へ着いた。直ぐに、與兵衛、勘右衛門、磯七を捕らえ一味と思われる数名を捕縛した。暮れ時に吉田へ連行し、連日の取り調べとなった。

 土居式部は小頭・市左衛門より急に呼び出されたので、慌てて神社を出た。だが、市左衛門は能壽寺村で式部を見つけ、直ちに腰の物を預り、腰に縄を付け連行した。

 戸雁村と出目村にも捜査が入り、出奔していた萬助も程なく逮捕された。

 先日、作之進が式部宅に行って様子を伺っていたときに、一杯機嫌の式部が、

(何の蚊のと数々言わなくても、先年の通りに宇和島御一致になればよいのだ)

と意味不明のことを言っていたが、これが後年に起こる百姓一揆の予兆であったとは、作之進は気が付くはずもなかった。

 この式部騒動は、吉田藩三万石分知に絡んでいると思う。

もともと宇和島藩の領地だった三間郷の百姓は吉田藩の重税にあえいでいた。そこに、三島神社の土居式部と庄屋の樽屋與兵衛が農民を救済しようと宇和島藩への越訴を企てたのである。

 三間の領民は、昔の領主宇和島藩の統治を望んでいたというが、越訴という手段に農民でもない一介の宮司が命を懸けるものだろうかと、作之進は考えていた。

 逮捕された式部と、萬助の二人はその後、獄中死したと伝えられているが、吉田藩の厳しい拷問にも口を割らなかった。騒動の背後に何らかの陰謀があったのではなかろうか。

 作之進は、「庫外禁止録」で面白い事を記している。

…いろいろ吟味の御用が多く野生(作之進)等、夜分に寝るより外に在宿は致さず、それ故、出生の女子七夜には名も付けず、

三七夜目に名を家と付け申した。吉田にて七夜に名を付けぬ子は類も有るまじきかと存候、これも記し置き候事。…

***

 ブロガーは先年、三嶋神社を見学しようと三間町へ行った。小雨の降る日で、入口には常夜燈があり宝暦3年と刻まれていた。

 階段を登ろうとしたが、見上げれば100段以上ある。とてもじゃないが、足が悪い上に雨である、本殿を見ることなくここで断念した。

 過日、三間の英雄・土居清良の物語をブログに載せたが、清良の末裔が三嶋神社の宮司・土居式部だったとは、何かの因縁を感じる。

 

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 (吉田町御殿内、吉田藩陣屋址に簡野道明図書館が建った)

       =2016.4.28 ブロガー撮影=

陣屋の正門に戸平門があり、簡野道明が勉学で通った場所だが、今は門の石組が残っているだけである。陣屋には御郡所、御代官所、御兵具蔵があったが、廃藩後は全ての建物は無くなり、今では吉田陣屋跡という石碑があるのみ。