簡野道明は伊予吉田の偉人  5

心血を注いだ『字源』を刊行

 

 道明が勤めた東京女子師範学校は、1949年「お茶の水女子大学」に改称された。国立の女子大学は、同校と奈良女子大学の2校のみである。

 お茶の水女子大デジタルアーカイブズに、道明の写真が残っているので引用させて頂く。

 明治36年国語体操専修科の卒業記念写真、道明は漢文の授業を担当した。明治42年10月9日太田金山(現群馬県太田市)遠足写真、当日は秋季郊遊会で教官・生徒一同が日帰りで太田市大光院を訪れた。道明も洋装で、ど真ん中に写っている。明治44年3月の写真は若き日の道明である。

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明治36年卒業写真(上左から4番目が道明)

 

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明治42年遠足写真(上右から5番目が道明)

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明治44年頃の道明

 道明は、大正3年、東京でも有数の名門学校をいきなり辞めた。官報にあるように昇給したばかりのポストをあっさり捨てた。50歳の節目に、小石川の自宅で執筆活動に専念することになった。

 村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」(大修館書店発行)を引用させて頂くと、

…官をやめた大正三年正月に心境を託した次の二篇の詩を残している。

『虚舟詩存』からその詩を抜き出して左にかかげておく。

 

  甲寅元旦口占

少小孤懐希聖賢

朝経暮史日鑽研

蹉跎空落青雲志

徒迓尼山知命

 

  甲寅春首掛冠有作

脱卻朝衣著布衣

初知四十九年非

閒雲野鶴従今後

月地花天自在飛

  

 門人佐藤文四郎の「虚舟先生小伝」によると、

先生が古い文字や言葉の意味を解釈する時、大変詳しく、行き届いていたことは事実であったが、それは、言葉の意味を正しく理解する上で必要であるからであった。

また先生は、孔子孟子の教えが中国では既に亡んで、行われなくなってしまったことを歎いて、彼の国の人々にこの教えを広め、この教えで導き彼らを救っていかなければいけないといつも話しておられた。

現在、漢詩を作る人は稀である。それは、漢字が難しい上に、詩のきまりが複雑で、面倒くさいと感じるからであろう。ところが先生は、既に十一、二歳の頃から漢詩を作られていたらしい。

十七年の歳月を経て書き上げたとされる不朽の名著漢和辞典「字源」の序の初めに「予、幼時、唐詩選・三体詩を愛読し、且つ好みて五、七言絶句を作り推敲苦吟・夜々夜分に達せり」とあって数年間は詩作に熱中されたようである。

けれども、十五、六歳以後は自由に作られ、字句を考えたり選ぶために苦心をしたり、何度も何度も練り直したりすることはなかったと言われている。自分の胸の中から流れ出る言葉を、あり合わせの紙にさらさらと書いたものが詩になっていたという。

上品で、しかも格調の高い詩になっていたのである。先生の詩は、酒に酔った時、または勉強の際などにふと感じて、封筒やはがきの端、新聞の折り込み広告、包装紙、パンフレットの裏、領収証、中には薬の包み紙に書かれた詩もあった。

だから作られた詩の大部分は、掃き捨てられたり紙屑として屑籠に放り込まれたりしたと思われる。書物の間や、原稿用紙の中などに紛れ込んで残ったものが「虚舟詩存」という詩集に残っている幸運なものである。

「詩は余暇にするので、自分の本来の仕事ではない。」と言われて、詩を残すこと、詩集を作ることを好まれなかったのである。「虚舟詩存」は先生の死後、弟子たちによって編集されたものである。」と記されている。

*註 唐詩選…中国、唐代百二十六人の詩を集めた詩集

*註 三体詩…唐詩を五言律詩、七言律詩、七言絶句の三体に分けて集めた詩集

 大正6年(1917年)「孝経校本」「実業漢文読本全三冊」「蒙求抄」を出版。

 道明は旅行が好きだった。53歳の折、北京・曲阜・西湖・盧山・長沙を歴訪し開城・京城を通って帰ったが、中国に遊び、彼の地の学者たちと交わり、古書の採集、史蹟名勝の探求に専念した。

 旅行から帰った後は、経学研究と辞典の編纂に没頭する為、勉強部屋を捜していた。道明夫婦は、多摩川の畔を下流に沿って探していたところ、羽田の地にいい土地を見つけた。それは代官屋敷跡で少し台地になっており、空気のよい六郷の提を越して、ゆっくりと動いていく帆が見えたという。

道明はこの地に別荘を構え、「間雲荘」と名付けた。道明は休みの度にここで過ごし、食事は一汁一菜と極めて簡素な生活で、終日著作に没頭した。

 

 

坂村眞民先生は癒しの詩人

 しんみん先生が好きなタンポポの季節になった。朴という木も先生は好きだった。ほおの木を知ったのは、ウオーキングクラブで物知りの老女が教えてくれた最近のこと。何時も休憩する所に、香りのいい白い花が咲いていた。

  

先生の詩に、朴とタンポポという詩がある。

 

わたしが一番好きなのは朴とタンポポ

一つは天上高く枝を伸ばしてゆく山の木であり

一つは地上深く根を下ろしてゆく野の草だからである

この天上的なものとこの地上的なものを

こよなく愛するがゆえに

願える事ならこの二つをわたしの眠るかたわらに

植えてもらいたい

風吹けば朴の木はほのかに匂い

タンポポの種は訪れた人の胸にとまって

わたしの心を伝えるであろう

  

 古い話だが、昭和48年(1973)発行の旧制吉田中学「創立五十周年記念誌」に、思い出のコーナーで、山下亀三郎理事長、清家吉次郎町長、桜庭十蔵校長などの挨拶文が掲載されているが、その中で坂村真民(旧職員)の詩を紹介している。

 

 よう帰ってきなはった              

吉田には二度お世話になった

二度目のときである吉田の町を歩いていると

いつも新聞を配ってあるくおばさんが

さかむらせんせいよう帰ってきなはったと挨拶された

吉田病院へ行ったら診察を終えて出ようとするおばあさんが

また同じことを言って下さった

魚売りのおばあさんに会うとまた同じ挨拶をされるではないか

わたしはこの時ほど吉田というところがどんなになじみ深いところであったかをじんじんするほど肌に感じたことはなかった             

つねづねわたしは人に言ってきた若し吉田にこなかったら         

わたしは人間にも詩人にもなれなかったであろうことを       

吉田には大乗寺があった

利根白泉先生がいられた

このお寺とこの偉人な先生とによって

わたしは人間を変えたいや変えさせられた

四面楚歌の時代であったけれども

わたしはかなしき(鉄敷)の上に

自分を置き

自分を鍛え

自分を磨いた

胃ガン肝臓ガン膵臓ガンと診断され死の直前まで追い込まれたが

白泉先生のおかげで脱出することができた

その後もさんたんたる苦難が潮(うしお)のように押し寄せたが

大乗寺に座ることによってわたしはこの危機を乗り越えることができた

今思えば吉田時代はわたしの一番激しい苦闘の時代であった

それを知って下さっているのは大乗寺禅堂の地蔵菩薩さまと

本堂の釈迦如来さまであろう 

いやあの裏山の木々たちも知ってくれているかも知れぬ

よう帰ってきなはったという声々が

わたしの胸を熱くさせる吉田よ

たちばなの花香るよき里よ

 

 この記念誌には旧職員と書いているが、真民先生は国語、古文などを教える教師で、ブロガーが教わった年代(昭和40年頃)は、吉田高校へ2回目の赴任だった。

 工業科の連中は先生のことを覚えていないと云う、普通科の者は何時も図書館で本を読んでいたと…しかしブロガーは先生の授業が印象深かった。

後で分ったことだが、海運王・山下亀三郎が三瓶と吉田に女学校を創設した縁で、真民先生は九州熊本から四国に渡って来た。

 昭和天皇崩御の時、NHKは過去に放映された「念ずれば花ひらく」の再放送を終日流した。東日本大震災では先生の詩が被災民を癒したという。先生は、日本国民的詩人として愛され、97歳の天寿を全うした。

***

坂村眞民先生から授業を受けた9歳上の先輩から手紙が届いた。

 親族に、眞民先生の詩を学ぶサークルがあり、今度横浜・宝積寺で詩の朗読と、音楽会を開くというご案内だった。

この寺の住職が先生に私淑されており「念ずれば花ひらく」の20番目の詩碑が境内にあるという。今では世界に740基もの詩碑が建てられているが、各地の書道展でも先生の詩を書く人が多いそうである。

同郷のよしみで紹介すると、このコンサートは5月11日にテラノホールでプロ奏者が~TUMUGI-紡―癒しの詩~渡辺純一の世界と銘打って開催するという。(チラシ添付)

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簡野道明は伊予吉田の偉人  4

結婚/東京へ

 本ブログは、平成22年(2010)名古屋大学大学院・文学研究科中国文学教授の加藤国安氏が、吉田ふれあい「国安の郷」で『簡野道明の若き日の足跡を訪ねて』と題し講演した資料を参考にしている。先生の名前が国安というのも何かの縁であろうか。

 因みに吉田藩成立の時、陣屋前に運河(国安川)を造ったのが総奉行・国安什太夫である。

 また、平成3年、吉田町立図書館長・堀田馨氏が著作した『簡野道明先生小伝』も引用させて頂く。堀田館長は、道明の弟子・佐藤文四郎氏が書いた『虚舟先生小伝』を分かりやすく書き換えて、なるべく多くの人々に読まれ、簡野道明先生を知る上の一助ともなれば幸いであると、あとがきに述べている。

 依ってブロガーは、これらの資料を勝手に編集しているので、著者には引用をお許し願いたい。

***

 道明の新婚生活をネタに、教え子が「簡野先生が美しい奥さんを迎へられたといふので、夜、覗見をした」この昔話に、其の頃の簡野さんの様子を想像して、微笑を禁じ得なかったものである。と、島根の日本画家・伊藤素軒は「哭簡野虚舟先生」の中で述べている。

 簡野道明夫人とは、松山藩の典医、今井鑾の娘で信衛という。信衛の父は、福沢諭吉先生とも交遊があった。信衛は元治元(1864)年、愛媛県松山で誕生。当時の愛媛は、江戸時代より様々な思想や政治の潮流が交差する土地柄であり、このような教育環境に恵まれたためか、信衛は、封建的女性教育者とは異なる、かなり進歩的世界観とグローバルな視野を持っていた。大洲喜多村の小学校で訓導をしていたときに、道明と知り合い結婚した。この信衛夫人こそ、読書・揮毫・家政学にすぐれ、夫を陰で支え、またよく子らの養育をし、世に賢夫人として称えられた人物である。

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(信衛夫人像 ブロガー撮影2019年3月11日)

 明治25年道明28歳、兵庫県神戸高等小学校訓導になるが、「もっと勉強したい。」という気持ちが強く、ついに7年間の教員生活にピリオドを打ち、家族を連れて上京した。

 東京に出たからと言って、仕事の当てがあったわけではない。頼りになる知り人がいるのでもない。妻や子供を餓死させないという保証はどこにもない。苦難の時代、苦学の時代が始まったのであるが、道明は苦学という言葉を好まなかった。

「世の中に、学ぶほどの楽しみは他に何があるか、何もない。学ぶと言うことはこの上なく貴いことである。私たちはこの学ぶことの為に働くのである。たとえどのように心や体が骨折りであったとしても、学ぶ為にはそれは楽しみであって、苦しみではない。苦学などという文字、言葉はあっても、そのような事実はない。」と語った。

 道明は友人がやっていた出版社・文学社で雑誌の記事を書いたり教材の出版などを生活の糧とした。こうして働きながら独学を始めたが、明治28年東京高等師範学校(現 筑波大学)に国語漢文専修科が設けられたと聞くや、道明はここで勉強しようと入学した。既に中等教員の免許状を持ち、漢文の教科書の編集や校閲をやっていた者がどうしてと、不思議に思う人もあるかも知れないがこれまた止むに止まれない向学心の表れであった。 

在学中は、道明の学問・識見も相当なものであった上に、教授も大家であったから、互いに磨き合い励み合い、道明の研究も進んだものと思われる。

 明治29年高等師範学校を卒業し、明治30年東京府師範学校(青山師範学校の前身)の教諭となった。在職中に「初等漢文読本4冊」「高等女子漢文読本全4冊」「読書作文用字訣」「中等漢文読本全10冊」等を出版した。

 明治35年、38歳で東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の教授になる。

 小伝には『ある年、時の皇后陛下(照憲皇太后)が学校にお出でになり、生徒の授業をご覧になるということがあった。各教師は当日の為に授業の予行演習を幾度も幾度も行った。が、簡野先生は一度も、何もされようとしなかった。心配した生徒が「何か予行演習をしてください。」と先生に申し出た。ところが先生が襟を正して言われたのは、「自分は平素、最善の努力を尽くして授業をしている。情熱と誠意の限りを尽くした授業だ。これ以上のことは何もできない。予行演習も良いが、無理に芝居のようなことをするのは却って失礼になる。君子の恥ずる行いであるから自分にはできない。」と言うことであった。生徒たちは一言の言葉もなく引き下がったという。この頃から先生の教育に対する考え方が次第に変わってきたようであった。「教壇に立つ教育は、どんなに細かく丁寧に説明しても限られた時と人との間の範囲内でしかない。もっと多くの人々を、後々の世までも為になる教育をするには本を書く以外にはない。」と考えるようになったのである。』と記されている。

 道明は50歳になった大正3年、12年勤めた東京女子高等師範學校を辞めた。

  ***

 国立国会図書館著作権保護期間が満了した資料などをウェブサイトで一般公開している。その膨大な資料の中に、道明が東京女子師範学校に勤めていた時の辞令などが残されている。

明治41年5月12日付官報 辞令

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 5月9日群馬茨木栃木ノ三縣ㇸ出張ヲ命ス

明治43年10月18日付官報

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 10月15日文部省 九級俸下賜

大正3年3月14日 官報

東京女子高等師範學校教授 簡野道明 七級俸下賜  

簡野道明は伊予吉田の偉人  3

代用教員から師範学校へ/教育者の道

 道明は、明治13年16歳の若さで東宇和郡白髭小学校(現西予市野村町)の代用教員となった。吉田から数里離れた山間部で、両親の許を離れ一人で小さな茅屋を借りて住んだ。家の前には荒間地川の清流が流れ、水を汲んで顔を洗い、自分で御飯を炊いた。その薪の火光で読書をしたという。

吉田三傑の山下亀三郎も京都で代用教員になったのが16歳だったが、その頃は小学校創成期で教員が不足していたらしい。亀三郎はその後、上京し明治法律学校(現明治大学)に進むが、道明も明治15年、18歳で小学校の先生を辞め愛媛県師範学校に入学した。もっと勉強したいという強い気持ちと、正式な教員免許をとる為であった。

 吉田三傑の清家吉次郎は道明と全く同じ道を歩んでいた。吉次郎は亀三郎と竹馬の友で乳兄弟だったが、課外塾では国学者兵頭文斎に儒学、漢学を習った。明治18年愛媛県師範学校(19年尋常師範学校改称)へ入学し明治22年7月に卒業した。

吉次郎は慶応2年生まれで道明より1歳下、師範学校は先に道明が卒業していたので「清家吉次郎伝」には道明は登場していない。

 (2021.10.13追記:吉次郎は、吉田中学建設の寄付を道明に要請し、50円を援助してもらった)

 道明の師範学校の生活は、他の生徒とは違って、大分大人びていたようである。日曜日などの散歩には、必ず大きな瓢箪に酒を入れて、腰にぶら下げて出かけた。散歩して訪ねるところもたいていはお寺や神社であった。寺に行けば必ず住職に面会し、詩の分かる和尚であれば、詩について話し、お寺にある書画や古文書などを見てまわるのが、いつもの習慣であった。生徒は全員寄宿舎に入って生活していた。道明は生徒でありながら舎監を命ぜられた。先生が成績と共に人物も優れていた事を学校の先生、生徒共に認めていたのであった。けれども当時の道明は一向に勉強はされなかった。なのに、いつも試験の成績は飛び抜けてよかった。 

 明治17年20歳で師範学校を卒業し、東宇和郡柳郷小学校(予子林小の前身)の訓導(教師)になる。柳郷は、現在の大洲市肱川町で、平成30年7月豪雨のダム放流による甚大な被害を被った町である。

 明治20年23歳となり、卯之町(現西予市)の高等小学校「開明学校」で1か月訓導を務めた。開明学校は、明治15年に建立され当時の学級数は4、教師4人で月給2~3円の薄給、児童の意識も寺子屋同然だったという。開明学校は白壁にアーチ型の舶来ガラスを採用、西日本最古の校舎として平成9年に国の重要文化財に指定されている。

 道明は9月に赴任し同月解任されている。当時教員の定着度は低かったが、発見された職員出勤簿によると、道明は9日~17日、23日~25日が欠勤となっており半月近く休んでいる。

 その後、宇摩郡三島、喜多郡大洲等で訓導を勤め、明治23年9月東宇和郡予子林(よこはやし)小学校2代目の校長となった。

 かつて簡野道明の研究家、名古屋大学大学院・加藤国安教授が調べた所、この学校は現在6学年全体で17名。明治23年の統計では、男子67、女子26だった。当時の簡野先生は、和服に下駄、それに流行の山高帽で、颯爽としておられたという。洋風化の教育に異議を唱えた。

「体操も唱歌も洋服もすべて外国向だ。之を好む仁は、幾何か軽薄の仁たるを免かれない」(坂本楽天簡野道明君」引用)

***

先日、蒲田女子高の簡野高道理事長を訪問した折、「学祖簡野道明の足跡を訪ねる」という冊子を頂いた。平成22年8月に高道理事長ら「簡野育英会」一行は、道明の赴任先を訪問し歓待を受けた。

 西予市野村町白髭地区で一行は、道明の在りし日の生活を知ることになる。当時、愛媛大学の教授だった加藤国安氏は、道明の研究調査で白髭を訪問した。地元の人が道明の住んでいた所など案内し資料など見せて調査に協力した。それを基に後日、加藤教授は『知の創造』を出版したという。

 また野村詠吟会の方が「漢学者簡野道明先生を称える」と題し漢詩を作り詠吟した。理事長一行は、道明の住居跡や学校跡地を見て回り、道明の事をこんなにも地元の皆さんに大事にされていることを知り感激したと、冊子に書かれている。

 大洲市肱川町では、教育長、史談会、予子林小学校など関係者が集まり、祖先が道明先生から教育を受けた事など話しが弾んだという。予子林小学校校歌に「簡野の道を文ひらき~」という歌詞があると元校長の親族が語った。ここでも地元の人が、一行を歓迎する漢詩を披露し更に吟じた。開校124年目を迎えた予子林小学校では、児童が校歌斉唱し、詩吟を披露した。この学校は詩吟大会で数々の優勝をするという、道明漢学の精神が継承されている。

 

簡野道明は伊予吉田の偉人  2

生立ち/小学時代

  簡野道明は慶応元年(1865)、伊予吉田藩の江戸上屋敷、南八丁堀で生まれた。幼名を米次郎といった。父は、吉田藩士の簡野義任で江戸定府の士だった。明治2年、米次郎五歳の時、版籍奉還で一家は江戸を引き払って吉田へ帰った。

 菅野家のルーツは陸前本吉の簡野浜で、伊達政宗の長男・秀宗の宇和島10万石入部に従って宇和島に移住したと思われる。政宗は西下する息子秀宗に選りすぐりの武将57騎を与えたが、57騎に簡野の名は無いので、その関係者であろう。

 秀宗の子・宗純が吉田に分知した折、菅野家も吉田に移り10数代目が道明の祖父吟右衛門である。

 吉田に帰郷した一家は、今の吉田高校の辺りにあった御厩奥の長屋に住んだ。ここには旧藩士が軒を並べて住んでいた。幼少の道明は、狩谷掖斎(江戸後期の国学者)に私淑する父に、本の読み方、習字を習った。

**狩谷掖斎の歌「文字の関まだ越えやらぬ旅人は道の奥をばいかで知るべき」** 

  明治6年學令発布で小学校が設立され、8歳になった道明は小学校に入学した。

 大正10年に発行された甲斐順宜著の「落葉のはきよせ」には(小學設立に就き教官は漢学の大先生にて湯川寛斎・山下興作・三瀬貞幹の三名士、何れも劣らず学徳兼備の堅者云々)とあり、甲斐順宜が受け持った生徒は11歳より14歳までの50人で、記憶する者の中に、簡野道明や法華津孝治、戸田友士、遠山成道らがいたという。

 因みに甲斐順宜先生の月給は3円だったが、明治7年先生を辞め東宇和郡の学区取締で野村、魚成の各校を開設した。

 道明の通った小学校は、藩の旧御殿、戸平門長屋をそのまま使い、非常に程度の高い授業だったようで、唐の「唐詩選」「三体詩」を読み、漢詩を作った。毎月一度テストがあったが、道明はいつも一番であった。11歳の時、小学校の教師をしていた父が、急用で出張したが、そこで道明が代わって教壇に立った。何と父よりも教え方がうまいと評判になった。

 その頃、道明が中心となって頼山陽の「日本外史」の輪読会を開いていたというから、どれだけ頭脳明晰な少年だったのだろう。

 14歳の時に、課外塾で漢学、数学等を勉強したが、教師に森蘭谷先生と兵頭文斎先生がいたが、漢詩を作るようになったのは兵頭文斎の影響が大であった。

**兵頭文斎とは…吉田藩勘定奉行取締、学館訓導などを歴任、詩文や書に長じていた。吉田藩の碩学。清「東瀛詩選」にも選録さる詩人。(名古屋大学教授・加藤国安氏の講演より)**

 江戸に定住して藩主に仕える者を「定府」といったそうだが、道明の先祖は吉田陣屋町を離れ、江戸に常駐した家臣だったのか。版籍奉還でどの藩主も東京に移住し、その家臣も共に上京する中、藩の無くなった吉田に帰るということは、父・義任に郷里で教員などの職業に就く道があったのであろうか。

何れにしても「吉田三傑」が活躍した明治期に、簡野道明も学問の道で花開くのである。

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宇和島市簡野道明記念吉田図書館・ブロガー撮影)

「簡野道明」は伊予吉田の偉人  1

蒲田女子高等学校を訪問

 東京は京浜急行空港線糀谷駅の近くに「学校法人簡野育英会」がある。学祖・簡野道明の遺志を継いだ信衛夫人が、昭和16年「蒲田高等女学校」を設立した。今では蒲田女子高等学校、蒲田保育専門学校として女子教育、幼児教育を行っている。ほかにも幼稚園、保育園の経営もされ、簡野道明翁の孫である簡野高道氏が理事長として務めている。

 今日、愛郷家・河野哲夫氏の紹介で同校を訪問し、簡野高道理事長と面談した。理事長は2010年、吉田町など道明翁ゆかりの地に来られている。いろいろ有意義なお話を聞いた後、校庭に出て学祖・道明翁、学校創立者信衛夫人の胸像を拝見した。 

 ブロガーは平成の始め、吉田町に帰省した時、国道56線沿いに重厚な建物があるのに気が付いた。昭和61年に建設された「簡野道明記念吉田図書館」だった。京都の二条城を模した豪華な構えで驚いた。以前から図書館の冠「簡野道明」という人を調べて見たかった。

 簡野道明は、江戸八丁堀の伊予吉田藩士の家に生まれ、明治維新により5歳の時、吉田町に帰った。頭脳明晰で少年の頃から漢詩を書いていた。やがて漢学者、教育者となり漢和辞典「字源」を著す。着想から20数年かけ独力で完成したというが、大正12年初版以降、大学関係や学者が買い求め、70年後の平成初期には300版という超ロングベストセラーとなった。今後も名著は漢学研究者など必須の書として重版されると云われている。

 昨年ネット販売で「字源」を注文すると、昭和60年1月20日発行・第298版の本が届いた。分厚い本の中から何と「四葉のクローバー」が5,6葉出て来た。前の持主が押し花として差し込んだものと思われる。未だその恩恵(幸運)には預かっていないが…

 道明翁は東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に在職中の35歳頃から漢文等に関する著書を多数出版した。戦前の旧制中学では道明翁の本が8割方、漢文教科書として使われたという。

 ブロガーは、「吉田三傑」と同時代に生きた簡野道明という偉人を知らなかった。郷里の偉人たちをネットで紹介する者として、忸怩たるものがあり、今後いろいろな情報を基にブログにアップしたい。高道理事長にもご了解を頂いた。

 

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(字源・四つ葉のクローバー) (道明翁胸像の前で)

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (缶の寄せ合い)【最終回】

 

 缶の寄せ合いジュラ紀前より引用)

 私が少年期の記憶である。町恒例の行事として毎年春に消防の出初式があった。出初式では一通りの形式ばった式の後、缶の寄せ合いというゲームが行われた。

 式は町の中央を横切る川の川原で行なわれた。春といってもまだ寒い最中である。観客は川の両岸や橋の上に鈴なりになるほど集まった。その日の天候によってはオーバ一の襟を立てて見物することになる。

 町はこの川で川上と川下に真っ二つに分けられる格好になっている。海側から見て町の右側山すそを流れていた川がほぼ直角に曲がり、町の真中を横切って、こんどは町の左側山すそを流れる川と合流して湾に出る。もともと葦の茂る所を埋め立てて作られた町だから戦略上、行政上そう設計されたのであろう。自然の蛇行をちょっと手入れしたのかもしれない。二筋の川を片っ方は町の真中へ向きを変え、下流でうまく一つにしたと思える。

 この町を横切る川の左右両端に橋が掛かっているから、ちょうど川原は両岸と二つの橋で取り囲まれた競技場のような格好になっている。これも町の設計時に計算されたのかもしれない。

その川原に大木が生えたように二本の高い柱を立て、両柱のてっぺんの間を太い針金でつないだ。その針金に5ガロン缶をぶら下げ、缶の底にはさらに大きな錘をぶら下げて缶がふらふら揺れないようにしてあった。

 消防車は近郷の村からも集まって参加するから10数台、6、7組の対戦があったと思う。大半は手動式のものであったが、何台かエンジン付きの最新式のものもあった。1年間ほとんど使うことがないから機械の調子を見、整える意味が主要な目的であったろう。式典の後、一台ずつ順に放水していく。思い思いの方向に向けたり一斉に真上に向けたりして噴水の競演を楽しませてくれた。音楽を奏でるように大小の放水を交差させたり一方を止めたり、数組の合唱のようにしたり、いろいろ見せてくれた。最後は一斉に全車が放水して噴水の列を作ったり交錯させたりと水の交響曲を奏でて見せた。毎年工夫がこらされ少しずつ違ったところも見せてくれた。 

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一通り放水技量を披露した後、こんどはいよいよハイライトのゲーム、缶の寄せ合いに移る。右と左の二手に分かれて一台ずつで対戦する。吊るしてある缶めがけて放水し、缶を相手の方の柱に押し付け合うのである。一定時間経つと笛が鳴り、そのときどちらに寄っているかで、勝敗が決まった。

 

だいたい同じくらいの能力のポンプ同士を組み合わせて試合を行なう。手動式の消防車では10人前後の人がポンプの取っ手に取りついて、掛け声勇ましくわっせわっせとやる。1度缶に水が当たると錘が付いていても結構大きく動く。缶は揺れたり、たまにでんぐり返りしたりした。

手動だから水の勢いもばらっく。狙いがなかなか定まらない。缶は少しずつ、あっちへ寄ったりこっちへ押し返されたり、いい勝負が続く。ポンプの押し手が疲れてくると一人二人と交代して取りついて一進一退、勝負はなかなかつかず、しばらくのあいだ楽しませてくれた。

「ほら、今だ、今当てんかい」

「何をもたもたしている、ほら、当てろ」

と観客もやきもきして応援する。うまく水が当たり缶が大きく寄せられると、わーと歓声が上がった。

 エンジン付きのものは数が少ないから出番は最後の方になった。こちらは掛け声よりエンジンのうなりが迫力があった。水の出る量も勢いも桁が違う。2台のエンジンがうなり真っ白く高速の水柱が空高く舞い上がった。大きく取り巻いた観衆のどよめきも、ひときわ大きく周囲の山にこだました。

手動とは全く違ったスケールを味わわせてくれた。水量も人が押すのと違い一定しているから狙いもつけやすかったであろう。均衡して両者の間で缶が止まってしまい、いたずらに両方の水が缶を押しつぶさんばかりに飛び散ったりした。

筒先は2、3人掛りで押さえていた。人力と違い水の出る勢いの反作用が強い、まるで強い風に向かって歩くように前傾姿勢で筒先を押さえていた。中の一人でも油断すると、へたをすると仰向きに倒されかねない。水柱があらぬ方向へ飛んで舞い上がったりする。そうした相手のすきに、たまたまうまく水が当たると缶は一気に相手の柱まで吹っ飛んでいった。

降り注ぐ敵の放水で標的は見えないし、的が真上になるから水が缶の底に当たる格好になる。側面に当たってもほぼ平行になるから向こうへ押しやる効果が激減する。あわてて筒先を後ろへ下げて、自分の方の柱に押し付けられた缶を押し返そうとする。降り注ぐ相手の水流の下で、後ずさりしながらの放水になる。勢いよく放水されているから筒先が暴れかねない。それを大小の石ででこぼしている川原を後ずさりして持ち運ぶのだから、転びそうになったりする。うっかり手を離そうものなら大変である。けが人が出かねない。

砲手が必死でしがみついて筒先が暴れるのを防ぎながら、倒れないように支え合いながらの後退になるから筒先が定まらない。水が観客の方へ飛んでくることは珍しくなかった。ウワー、キヤーと悲鳴を上げて将棋倒しになったり、逃げ散ったりした。不利な状態に追いやられた方は、反面、缶との距離が極端に近くなるから1度うまく当たると一気に押し戻し、逆に相手の柱まで缶がすっ飛んでいく。手動式の場合と違い缶の動きも大きくなる。それだけ筒先の向きの転換も大きく頻繁になる。放水が観客席へ向かって来ることもそれだけ多い。

もたもたすると遠慮はしない痛烈なやじが飛んだ。消防士さんの方も必死である。寒いのつらいのという状態をいつのまにか忘れてしまう。その真剣さが観客にも伝わって興奮してくる。みんなの応援、歓声も一段と大きくなった。

そんなわけで土手の石垣の上、前の方では子供は危ないといって見せてもらえなかった。しかし試合はどこからでもよく見えて、あちこち移動しながら大人のわきの下をくぐり抜けて前に出、迫力あるゲームを楽しませてもらった。

 出初式は寒い季節にいわば水遊びするわけだから、消防士さんは大変であったであったろう。おそらく行事の後に振るまわれるお酒が、たまらなくおいしかったに違いない。

当時はこの缶の寄せ合いの人気は相当に高かった。行事が行なわれなくなってかなりの年数も経っている。遠く離れて想うものの一つであろうか。

 昨年たまたま母の法事で帰郷した折に、この缶の寄せ合いが復活していて見せてもらった。何10年ぶりのことになる。

昔と違いみんな裸で白ふん締めた格好でがんばっていた。観客集めの苦肉の策のように思えた。

震えながら肩をすぼめてやっていた。昔の雨合羽を着けてやっていたのと全く雰囲気が違う。何よりも観客がほとんどいない。やっている方も精が出ないのも無理がない。裸で寒そうに震えているから気の毒な気持ちの方が勝ってしまった。消防車はもうほとんどがエンジン付きに代わっているから、汗を流すような場面がほとんどない。砲手の2、3人以外は、ほとんどじっとしているから寒さが身にしみるであろう。かたわらで手持ち無沙汰でしぶきを避けて震えている格好になる。昔の興奮とはあまりにも掛け離れていた。老齢化、人口構成の偏り、若者の極端な減少などなど、行事を続ける環境は相当厳しそうに見えた。

 観客が少ないということは決定的に不利に思えた。見るこちらも老化しているから感動が鈍っている。地元の人たちの努力を、もっと生かす何かいい知恵は出せないものかと考えたが全く思い浮かばない。時代の変化の重さだけがずっしりとのしかかった。生活環境を決定的に変えなければ、とても昔のような姿はよみがえりそうにないと思えた。それは何だろう? 本当に大きなテーマだと思う。

それは年寄りの昔をなつかしむ単なるセンチでは決してないと思うのだが、それこそまさにお「センチ」なのだろうか。

 

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ジュラ紀前」掲載のおわりに

 三瀬教利さんが執筆されたふるさと回想記は、挿絵付の懐かしい昔話が39編綴られている。後世に残すべき貴重な文献としてブログ掲載を許してもらった。

 三瀬さんは、最後にこう記している。

 『21世紀にはインフォーメーションテクノロジー、I Tの進展によるグロ一バル化がいっそう進み、生命科学など科学技術の社会への波及も急進化、複雑化が避けられないであろう。よほど「まじめさ」「おおらかさ」を持っていないと対処できないのではないだろうか。

 目先の果実に惑わされて人間としての目標、限界が見えなくなり、自己中心的になったり、自制を失ったりしないよう「まじめさ」「おおらかさ」「ゆとり」を持ち続けなければならない。いっそう心豊かな時代になって欲しい。

それでこそジュラ紀のような繁栄の時代であり得ると思う。』