ブログ本の出版&ブログ休止

 これまで愛媛県宇和島市吉田町の「吉田三傑」などの偉人伝や、郷里の歴史・文化をブログに書いてきました。

 ブロガーは、今年9月『航跡 三篇』と題して自費出版(非売品)しました。内容は、ブログにアップした「がいな男」、「アイクと呼ばれた男」とkindle出版した「子規とあんやん」の三篇です。
『航跡 三篇』は200冊を発行し、一部を宇和島市内の各図書館に寄贈しています。興味のある方はご覧ください。
「子規と あんやん」は吉田三傑のひとり清家吉次郎と正岡子規の機縁(病床六尺)を書きました。 

 

(内航海運新聞に連載)

 (『航跡三篇』を吉田高校同窓会関東支部に寄付/梶原支部長撮影) 

Amazonkindle出版)


おしらせ

 永い間、当ブログを読んで頂き有難うございました。今回をもって更新を休止とさせていただきます。田舎のこともネタ切れで「やりきった」感があります。
 暫く、はてなブログは閲覧可能ですので覗いてください。

 皆様のご多幸をお祈りします。

 

                   ブログ主

アイクと呼ばれた男(35/最終回)終焉

 浜田喜佐雄の寿像制作者は伊藤五百亀氏、題字は増原長官。

吾が胸像を見て浜田は、(地下の父母いか宜ふや桜花の春)と詠んだ。

 ブロガーは平成26年9月『トランパー』の取材で40年ぶりに浜田翁の銅像を訪れた。昔、昭和50年に浜田家を訪れた時は、浜田翁が浜田家のお墓参りに行くというので、裏山の蜜柑山へ連れて行ってもらった。お墓は法花津湾を見下ろす丘に建っていた。平成30年豪雨では浜田家のお墓は無事だったが、白浦の蜜柑山は方々で大崩れした。

 ブロガーは平成28年4月30日「トランパー出版祝賀会」で、浜田翁のことを話した。郷里の先輩赤松氏は、東京からわざわざ帰省され、浜田翁の昔話を涙ながらに語られた。 …アイク浜田が亡くなって30年が過ぎていた。

浜田喜佐雄像(天満主神社)

赤松勝義さん(吉田町公民館)

法花津湾の見える玉津の蜜柑山から撮影(2016.4.29)
浜田翁の眠る福厳寺が眼下にあり法花津湾の向こうに翁の生まれた白浦が望める。

内航海運新聞 2023/11/27

 

アイクと呼ばれた男 (32)田中正之輔急逝(33)三光事件(34)浜田社長激昂

田中正之輔急逝」   

 鎌倉円覚寺の朝比奈宗源管長は「田中さんを送る詞」で、義理固い田中の人となりを追想録に寄稿した。…朝比奈管長は、がいな男の山下亀三郎が亡くなった時、盟友の松永安左衛門が「私の友人山下が死んだ。この寺に葬らせてくれ」というので黄梅院へ墓地を取った。田中正之輔が円覚寺に来ると、必ず黄梅院にのぼり、恩人(がいな男)のお墓参りをしたという。

 アイク浜田は、山下亀三郎のこと、田中正之輔のことも「オヤジさん」と呼んでいた。どちらも崇拝する恩人だった。

昭和44年10月23日芝・青松寺の葬儀
告別式会葬の佐藤首相ご夫妻

 

アイクと呼ばれた男 (29)ジャパンライン(30)ジャパン近海(31)インターエイシアライン

 海運集約でジャパンラインが発足した。田中も竹中も自分が育てた会社の名が無くなるが、大所高所から国家の為に合併したので、名に拘らず、ハイカラな社名にした。

 筆者が入社した(昭和42年)ジャパン近海は、以前、元日東商船が入っていた岸本ビルの3階に事務所があった。筆者は毎朝、ジャパンラインが入っていた国際ビルまでテレックスを取りに行かされた。浜田社長は社用車で三鷹市の自宅から出勤した。いつも大きな黒革の鞄を持って社長室に入った。ペイペイの筆者は、威厳のある社長には近寄りがたかった。しかし、代官山寮の宴会で社長と総務部長が、皆に珍芸を披露した時のギャップは忘れがたかった。

合併契約調印式   昭和38年12月18日永楽ビル
右から竹中、水鳥、田中、浜田、土居、和気あいあいの調印式を終えて、
破顔一笑の浜田喜佐雄が映っている。




アイクと呼ばれた男 (27)吉田町へ帰省(28)海運集約

 浜田は昭和35年、雑誌『四国』4月号に〝望郷”と題して寄稿した。

…ここ玉津は法花津湾と呼ばれる湾の懐深く抱かれた村で、はるか南西は、豊予海峡の波頭を眺めて天涯に接し、又その背後には600m余りの高森山がそびえ、数々の連山、山稜によって囲まれている。昭和18、9年頃、八幡浜宇和島間の鉄道が開通したが、中腹にある国道のすぐ下方にレールが施設されたのでトンネルが多く、汽車の後部が未だトンネル内にあるのに、前部の機関車はすでに次のトンネルに頭を突っ込んでいる。この村も南予の海岸線に洩れず、天然の厳しい環境の中で生活を送っていた。「自然の持つ厳しい制約が、あの不退転の南予の魂なのかも知れない」と記している。

浜田は「四国」、関東愛媛県人会発行の「関東愛媛」などに数多く寄稿している

ぶるっくりん丸(ニューヨーク定期船) 昭和35年7月竣工、三菱長崎、12,392重量トン



アイクと呼ばれた男 (26)スーパータンカー建造

 浜田がタンカー「エベレスト丸」を建造した頃、日本で初めてのLPGタンカーが播磨造船所で起工された。日東商船が日本合成ゴム㈱向けの「第一えるぴい丸」で、5年後、浜田はジャパン近海の社長として、えるぴい丸シリーズ船を建造、運航することになる。日本経済の高度成長で、タンカーなど専用船の需要が増えた。

昭和34年7月23日、えべれすと丸進水式  左端が浜田喜佐雄、一人置いて田中正之

えべれすと丸(油槽船) 昭和34年10月31日竣工/三菱長崎 29,216総トン、47,274重量トン